“アルチュール・ランボオ/Sensation (サンサシオン)” | “ギターを抱いて雲と泳ぐ”行雲流水~放坊blog

“アルチュール・ランボオ/Sensation (サンサシオン)”

放坊 秀樹-130407_2240~01.jpg


 『夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、
ちくちくと穂麦の先で手をつつかれ、小路をゆこう。
夢みがちに踏む足の、ひとあしごとの新鮮さ。
帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。


 話もしない。ものも考えない。だが、
僕のこのこころの底から、汲めどもつきないものが湧きあがる。
さあ。ゆこう。どこまでも。ボヘミアンのように。
自然とつれ立って、恋人づれのように胸をはずませ…』

(Sensation~サンサシオン/アルチュール・ランボオ)


 ぼくが10代の頃に、ボブ・ディランやキース・リチャーズ、J・ケルアックやサリンジャ—などと同じように強く影響を受けた人の一人に、詩人アルチュール・ランボオがいる。

 彼も10代に生きた詩人であったから、特に親しみを憶えていた。


 当時の、詩の世界に天才的な才能で衝撃を与え、しかもあっさりとその詩を捨て去り去っていった…その潔さも。


 あの頃は、彼のあまりにもエキセントリックで奔放な性格と、その破天荒な人生(ロック的な)に強く惹かれていたのだが、歳を重ねるにつれ、また自分が彼の父親のような年齢になって、いつも思うのは、彼がぼくの年齢になったとき、どんな人物になっていたのだろうか…ということだ。


 早くして逝った偉人の誰もに言えることは、その人の人生がそこで止まっている…ということで、またその時点までで評価されてしまうということでもある。


 ジョン・レノンにしても、ボブ・マーリーにしても、ぼくはもう、彼らの享年をかなり越えてしまっているのだ。


 ランボオ~彼の、詩人を19才で“卒業”?“ドロップアウト”?してからの足どり(行方不明とも言われていたが)も今ではわかっているのだが、いろんな放浪~業績の果て、それでも37才で亡くなっている。


 中高生の頃から今まで、ランボオの詩集は何冊目になったか…でもずっとぼくは読み返してきた。
でも、今となってはサリンジャー(“ライ麦畑で…”)などのように、あの頃と同じようには共感は出来ない。
それは、ぼくが成長~変化しているからなのだろう。



 こんな風に考え、生きている今のぼくを、10代のぼくは想像すら出来なかった。
 
いやたぶん、あの頃のぼくは今のぼくを許せないかもしれない。

 でも、あの頃のぼくを今のぼくは許せるのだ。

 それどころか、その何とも“恐れを知らない”?自分を、もはや共感は出来なくても、愛しくさえ思える。

 今もランボオの詩を読むとき、ぼくはそこにあの頃のぼくを共に感じ、けして忘れたくない何かを確認出来るのかもしれない。

 そして、生きていること、生き続けていくことは素晴らしいことだということも。


 一見ありふれているような、この『Sensation( サンサシオン)』という、16才~初期の短い詩には、彼の原点があり、彼の本質が窺える。
だから、後の彼の革命的~ラジカルな詩たち(イリュミナシオンや地獄の季節…)の中では象徴的な詩となっている。

 彼は“詩人”をやめても、生涯“ボヘミアン”であった。



 ぼくが一見成長して変化したように感じる今でも、未熟であったあの頃の自分をいつも内包しているように。

 そして、かつて憧れたその少年は今、“ボヘミアンは口笛を吹いている”と歌っている…。