新春に「春一番」によせて | 穂口雄右ゼミナール・オフィシャルブログ(略称:穂ブロ)

穂口雄右ゼミナール・オフィシャルブログ(略称:穂ブロ)

穂口雄祐ゼミナールは、70年代歌謡曲などで活躍した音楽家
「穂口雄右」先生の「熱い思い」を共有し、世に広めることを目的とした有志の集まりです。

文責 : 川村

元旦早々NHKでキャンディーズの映像が放映されました。流石キャンディーズ発祥の局ですね。残念ながら見逃しましたが、新春から縁起が良いので春繋がりで「春一番」について書かせて頂きます。

この曲が世に出た当時、「これは永遠の名曲になる」と直感しました。その理由は若さ故に釈然としなかったのですが、短調なのに明るい曲調で、キャンディーズの歌の魅力もさることながら、歌詞の素晴らしさが大きな理由だと後年になって気付きました。

更にその後、穂口学長ご本人の文章によってそれが裏付けられました。CDへの寄稿「現実となったビジョン」から一部を引用します。
「(春一番は)私にとって最も印象的な作品です。(略)そしてこの作品の良さは、何よりも歌詞にあると考えています。(略) 歌詞は、作曲より編曲より難しい!私の実感です」と述べられています。

さて私の拙い分析では、息の長い数々の名曲の歌詞には、漢語(熟語)や外来語(カタカナ語)が殆ど含まれていません。演歌に留まらずロックでも、大和言葉だけで書かれた曲にエバーグリーンが多いようです。
どうやら漢語はメロディーに棘を作り歌い難さを醸し出し、外来語は陳腐化し易いのが原因だと思われます。
「春一番」も殆ど全てが平易な大和言葉から成り、熟語は唯一「去年」のみで、カタカナ語も「コート」だけです。しかもどちらも他の言葉に言い換え難いので、実質的には全てが大和言葉だとも言えましょう。
それが原動力となり、この曲の「時間軸」を大きく延ばしたと考えます。
この点について穂口学長の具体的な言及は有りませんが、この2語の扱いには恐らく相当苦慮なさったのでは無いでしょうか。

また歌詞を作るのが最も難しいという実感については、穂口学長はTwitterでも何度か述べられています。白紙の状態から作詞する事は、間口が余りにも広すぎて、描きたい世界を構築するのに多大な労力を要するという様な内容でした。
私自身の実体験からは、作詞・作曲・演奏・録音 の労力の比率は、5:2:1:2 といったところでしょうか。
作詞に何故こんなに時間が掛かるのかと不思議でしたが、プロでもそうだと知り安心致しました。

ところで穂口学長が艱難辛苦の末に平易な日本語で書かれた「春一番」を、一言で表すとすればテーマは何でしょうか?
恋愛・失恋・復縁・自然・早春・三寒四温など様々浮かびますが、なかなか一つに絞り込めません。平易では無くむしろ難解です。
「恋をしてみませんか」と言っても初恋ではなく、復縁を迫ってデートに誘った様でも、まだ声を掛ける勇気も無い失恋状態のままとも受け取れます。そもそも「恋をしてみませんか」とか「彼を誘ってみませんか」とか言っているのは誰なのでしょうか。女の子自身なのか、友人なのか、天の声なのか。更には春一番が吹く頃に蛙が居るかという具合に、考えれば考える程に意味が限定できなくなり、矛盾も生じます。
この様に聴き手の想像力によって、如何様にも解釈できる含みを持たせた歌詞である点が、「春一番」をエバーグリーンにしている第二の理由だと考えます。要するに飽きが来ない訳です。
…………………………………

具体例を一つ。私と穂口学長とのTwitterのやり取りです。

川村(@candeeds)
これ迄私は 「春一番」 の歌詞で水を蹴っている「蛙の子」とは、手足が生えた小さな蛙だと勝手に思い込んでいましたが、世間では「♪オタマジャクシは蛙の子」と定義されているので、穂口先生もオタマジャクシをイメージされていたのでしょうか?

穂口雄右 (@Yusuke_Hoguchi)
きましたね、ポイント。じつは、私のイメージはまだカエルになったばかりの小さな蛙です。つまり @candeeds さんのイメージは私と同じです。ただ、歌詞は人によって解釈が変わる面白さもあるので、どのようイメージで聴いて頂くかは自由です。また、歌詞の意味は年齢によって深まります。
…………………………………

これに対してある方は「私は足が生えた頃のオタマジャクシだと思ってましたね」と答えられており、「まだ手が生えていない状態」を想像されていた訳ですから、歌全体の解釈となるとそれこそ千差万別となりそうです。

これに関連して、穂口学長は「微笑がえし」についてのツイートで次の様に述べられています。
「良く出来た歌は聞く人によって意味が変化します。そして言葉と言葉の間に新しい意味が生まれます。したがって言葉と言葉の意味上の距離が離れているほど沢山の意味が’生まれますが、その分難解になります。」

「矛盾は気にしちゃいけないんです。もっと言うと歌詞は矛盾が多い方がイメージが広がります。夢の世界と同じです。イメージが鮮明で思いが伝われば理屈は要らないと思っています。」

正しく「春一番」もこの様な歌詞に該当します。懐が深いのです。だからこそ今になって東北の被災者の方々が、この歌詞に勇気づけられると賞賛されるのにも成る程と頷けます。

翻って最近の流行歌の歌詞を見ると、やたらに早口になり語数が多くなっていませんか? 言葉が増えた分だけ説明的になり、まるでスローガンか芝居のト書きか日記かと思える程に意味が限定され、詩というよりドキュメンタリーに近い印象すら抱かされます。
即ち、聴き手の想像が入り込む余地が減少している訳ですが、同時に熟語やカタカナ語も多く侵入しているので、先に挙げたエバーグリーンの2条件に反しています。
その上歌詞が長すぎて覚えきれない、CDが売れない、YouTubeは削除、違法ダウンロードは逮捕となれば、人々の記憶に長く留まるとは思えません。

美しい宝として長く遺されるものが芸術だとすれば、現在の日本の音楽を取り巻く状況は、送り手側が芸術性に背を向けて、賞味期限付きの消耗品ばかりを販売している歪なものとしか思えません。もう少し多様性を回復してくれると嬉しいのですが。

その状況下での象徴的存在が、著作権管理がJASRACから穂口学長個人に移った「春一番」だと思います。CDやカラオケ・放送・音楽配信等の各社の「春一番」への今後の対応の仕方が、音楽業界の将来を占うリトマス試験紙だとは言えないでしょうか。
手続きがやや煩雑でも名曲を尊重するのか、前例が無いという理由で無慈悲にも多様性を切り捨てるのか大変気になる所です。

しかし今年はキャンディーズ誕生から40年の節目の年なので、良い方向に向かう事をファンの一人として年頭に当たり切に願う次第です。
何時でも何処でも誰でも「春一番」を聴いたり歌ったり出来る世の中は、多くのミュージシャンにとっても良い環境だと思うからです。