家庭劇に座員が戻ってきました。
マグロは生まれてから死ぬまで泳ぎ続けます。

結局ね、表現者も一緒なんです。表現し続けないと生きられないんです。死んでしまうんです。


戦中という狂った世の中で、

自分の正気を保つ唯一の方法なんです。




コロナ禍という戦争まっただ中の今も一緒です。




千代はそれをわかっていたんですね。

だから頑なに解散に抗った。


万太郎から捨てられ、初代天海に出会うまで表現の場が無いという地獄を過ごした千之助もそれは身に染みてわかっていました。


だから「なんもかもおもろない」と立ち去ったのは、もちろん、戦争というものに対しての数多の思いに対してはもちろんですが、

家庭劇を切った鶴亀に対してじゃなく、

鶴亀に切られて解散を決めて表現を放棄した"表現者として"の一平に対してだと、私は考え演じました。


一平は一平で、座員やその家族たちの生活を考えての、"人間として"の決断なんですけどね。




一平は一平で、京都の劇場を押さえていたのは、皆が戻ってくる確信があったわけじゃないと私は思います。

千代のためでもない。一平自身も気付いてないでしょうけど、あれ、自分のためなんです。最悪、自分一人でも舞台に立つ、立ちたい!と。

舞台に立ち続けなきゃ死んでしまう、喜劇役者の息子という生まれながらのマグロの本能だと、私は思います。




そういう表現者の宿命で戻った座員たちは、

とうぜん千之助が帰ってくることに何の疑いも持たなかったでしょう。で、誰が言い出したのか知る由はありませんが千之助を驚かそう!と。

いーねー!!!となって、みんなで千代や自分たちはどこに板付いて、どこでどういう段取りで、千之助が入ってきてからどういうタイミングで、と相談して、ひと通り稽古して、手直しして、靴を隠してスタンバイした、、、




これはもう、"芝居"なんですよね。




それだけみんな芝居がしたくてうずうずしてたんだと

私は考えました。



泳ぎを止めてみたら呼吸ができなくて死にかけたマグロたちが、顔を合わせた途端にさっそく群れをなして泳ぎ出したんです。



だから千之助が登場した時も、


放送ではカットされていましたが、

驚かされた千之助が息も絶え絶えに自分の胸に手をあてて、


「おい!心臓動いとらへんやないか!泣」

「またまた。笑」

「ほんまじゃ!泣 止まった!止まっとるわ!泣」

「いや、千さん、そっち右や」


と、みんなでワイワイと台本にない"にわか"もしました。



千之助にとっても久しぶりの"芝居"ですからね。




もちろん、千代の思いを遮っての


「小山田のおっさんの寿命来るわ。半分死んどるやないか。魂出とるがな」も台本にはありません。本番だけのアドリブです。😁



ま、デコピンも勝手に。




そして、乾杯の前の


「幸せやったらそれでええんや」もです。



幸せは語るもんじゃなく、浸る(ひたる)ものだと

私は思うからです。幸せと感じたらそれでいい。

例えば温泉レポート中は気持ちいい温泉をじゅうぶんに堪能できていないですよね。食レポ中は美味しい食事を堪能できないですよね。



千代、浸れ。みんな浸れ。今はとにかく浸れ。

そういう思いで私は付け足しました。



狂った戦中です。そんな幸せなんかほんの一時で、

すぐに粉々、散り散り、完膚なきまでに踏みにじられるのが千之助にはわかっているからです。


私はそう考え、そうしました。