おちょやんはいよいよ、日中戦争から、
太平洋戦争の悲劇に向かっていきます。
戦争とは、
ジジイが始めて、
オッサンが命令し、
若者たちが死んでいく
という言葉があります。
そして、いつの時代も、
「表現者たる者は庶民の味方で反権力であるべき」
という、普遍の真理があります。
日露戦争の頃、
須賀廼家兄弟劇で「無筆の号外」(あの、万太郎・作のお皿を割る作品)というある種"愛国モノ"で庶民を煽り、ある意味 戦争に加担し、結果、敵味方の関係なく大勢の若者を死に追いやった、という悔やみきれない大きな後悔と反省を千之助はあれからずっと抱えている、私はそう考え、演じました。
しかし、一座の運営と座員たちの生活を考えれば、
"愛国モノ"をやるしかありません。
地獄です。千之助にとっては。
それが、今日の劇中劇の
「頑張れ!集配婆さん」です。
その最後、座長の一平始めお客さんまで、
劇場がひとつになって興奮してバンザイを繰り返す中、集配婆さん役の千之助は絶対にバンザイをしない、私はそう考えそう演じました。
この大人たちが繰り返すバンザイの下に、
どれだけの若者が戦地に送り込まれ、むごたらしい死をむかえるのか。
実際、
沢山の人が殺され、また、沢山の人を殺しました。
ジジイが始めて、オッサンが命令し、若者たちが死んでいく戦争においての「オッサン」としての懺悔、
そして、反体制・反権力であるべきの「表現者」としての矜持からくる、千之助のせめてもの抵抗だと
私は考えたのです。
…でも、そんなことは、
死んでいく若者たちをたった1人さえも救うことはない、ただの千之助の自己満足でしかありません。
平和を守り若者たちの命を守るのは、大人たちが、
時代で変わる「普遍」ではなく、
時代が変わっても決して変わらない「不変」の思いと矜持を持たなければいけないのだと思います。
視聴者の皆さんがドラマを通じて、
戦争における被害者としてだけではなく、
描かれずともその裏にある加害者としての当時の日本の姿もいま一度きちんと考える大切な機会にもなればいいな、と、オッサンとして、表現者として切に思います。