直近、旧統一教会関係の話題を扱った番組をよく見かけます。信者2世の苦悩についても詳細に扱われ、教団がどのようなことをやってきたのかが明るみに出ていると思います。

 

このような報道がクローズアップされると、宗教と言うものがおそろしくなってきますが、しかし、一方で当然のことながら正しい宗教も存在しています。間違っている宗教もある一方で正しい宗教も確実に存在しています。

 

そこで、出てくる疑問は、果たして、この宗教の正邪を分かつ基準はあるのか?と言うことになると思います。

 

これについて考えてみたいと思います。

 

 

基準はいくつかありますが、まず、その宗教が心の教えを説いているかどうかということが一番大切になると思います。なぜならば、心は物質的なものを超えていくからです。

 

何を言っているのかというと、私たちは通常、家族が健康であったり、生活に困らない貯えがあったり、また、友人関係も良好で、幸せな人生であれば、うれしいと思うでしょう。それはそうです。そして、そうありたいと願い努力をすることでしょう。

 

しかし、一方で人生においてはどうにもならないことがたくさんあります。重病に陥ることもあるでしょうし、交通事故で腕を失うこともあるでしょう。仕事でリストラに会うこともあるでしょうし、貧困の中明日をも知れない生活を送ることもあるでしょう。

 

つまり、人生においては自分にとって都合の良いこともあれば、都合の悪いこともあり、両方が混在しながら進んでいくと言うことです。お釈迦様の言うように諸行無常で常に変転するということです。

 

さて、同様にお釈迦様は生老病死の苦しみを考えましたが、上記の自分にとって不都合なこととは、つまり、人生における苦しみということになるでしょう。この苦しみの意味とは一体何か?

 

文字数が多くなってしまうため、ここでは結論を言ってしまいますが、結局、このような自分にとって不都合なこと、苦しみと言うものは、自分を苦しませるためにあるのではなく、これは、魂を磨く砥石であるということです。このような困難を背負い、これを克服していくところに自らの魂の成長があるということです。

 

自分にとって都合が良いことが起こればうれしい、しかし、自分にとって不都合なことは排除したい、そのように諸行無常の中で心の波風を立てるのではなく、自分にとって都合の良いことも不都合なことも全て受け入れ、前進していく。そのような、「環境に依存しない心」を作ること。それが大切です。このような心を作っていくことで幸せになっていけるのです。ですから、幸せのためには、心を鍛えることが大切であると言うことです。

 

いいでしょうか。まず、第一に心の教えを説いているかどうか、それが基準となると言うことです。

 

ここにおいて、上記の例で、やはり、不都合なことを避けようという人が多いことも事実です。それが人間の常でしょう。そして、この心の弱さに付け込んで、商売を行うのが、これが、現世利益中心の宗教であり、また、霊感商法と言ったものです。現世利益中心の宗教は間違いです。霊感商法も当然間違いです。このような教えに騙されてはなりません。

 

なぜ間違いかというと、まず、そもそもお金によって幸せが得られるのではなく、心を鍛えることが大切であると言うことが一点。もう一点は、こらちのほうがより重要です。つまり現世利益とは、自分にとって都合の良いことばかりを欲するということであり、自分にとって不都合なことを排除しようと言う試みとなるでしょう。しかし、そのように、自分にとって不都合なことが排除されるとどうなるかというと、これは、魂を鍛える機会を自ら奪い取ってしまうということです。これは人生の目的に反します。

 

もちろん、困難礼賛は間違いですが、しかし、積極的に自分にとって都合の良いことのみを欲する態度というのはこれも間違いです。そんなことばかりしていたら、魂の足腰が弱くなり、どんどん独力で生きていく力を無くしていくことでしょう。ですから、このような楽な道のみを欲する心があるのだとすれば、それは、反省してほしいと思います。そのような心の隙に悪魔は忍び寄ってきます。

 

さて、もう一点、重要な基準として、論理性が挙げられます。法は論理性があり、矛盾があるのであればそれは正しい法ではありません。

 

つまり、ご先祖が苦しんでおり、高い壺を買えば供養になるという話をすることがあるようですが、それは、全くの間違いであると言ってよいでしょう。上記の通り、自らの幸不幸の原因は、自らの心にあり、この心を変革し、幸福になっていくためには自ら反省し、心を入れ替えていかなければなりません。他人が壺を買うことによって、その人を幸福にすることができるなど、何の因果関係があるのでしょうか?ありえません。

 

もし、亡くなった先祖があの世で苦しんでいるのであれば、その供養とは一体何かというと、子孫が、幸せな生活をしてみせることです。先祖は子孫のその姿を見て、自らの心の過ちを反省し、心を浄化することにって天国へと昇っていくことができるのです。それが先祖にできる子孫の供養です。

 

さて、次に、当然のことながら、社会的に見ておかしいと思う行動をしている宗教は、これは、何かおかしいでしょう。つまり、過度の勧誘をしたり、そして、よくあるのが、「辞めると地獄に落ちるぞ!」と脅す宗教です。辞めても地獄になど落ちません。これも、論理が破綻しています。なぜ辞めたら地獄に落ちるのか、その理由が明確でありません。地獄に落ちるかどうかは、上記の通り、自らの心のあり方によって左右されるわけです。また、生活が破綻するような過度のお布施を要求する、これも明らかに間違いです。

 

最後に、「考えるな!」と言って、思考停止に陥らせる宗教。これも間違いです。これはなぜそうなのかというと、私が思うには、おそらく論理が破綻しているから、頭のいい人にはその矛盾が暴かれてしまうからであろうと思います。それが怖いのだと思います。要は自信が無いのです。

 

法の重要な基準として、理の証明があり、それは論理性があると言うことです。論理性があるとは矛盾が無いということです。ですから、本当の心の教えを説く宗教であれば、考えてはいけない、などという自信の無いことは言わないでしょう。

 

むしろ、疑って疑って疑って、それでも真実であると思えば、それを受け入れなさい、そういう態度こそ本物であると言えるでしょう。

 

私の著書、『宗教統合』、『この世とあの世を貫く幸せ』にも、関連する内容が記載されています。こちらもご参照ください。

 

 

また、より深い内容については、以下のwebサイトご参照ください。

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