綾野剛主演の映画、『ヤクザと家族』をようやく観た。

地元の映画館で最後の公開日、本当にギリギリ休みの日が重なって良かった。

エンドロールを見送って、場内の明かりが付いても、わたしはまだ自分の席に留まって、じっと座ったまま山本のことを考えていたい気持ちだった。立ち上がりたくなかった。外の喧騒にまだ帰りたくなかった。

観終わってからしばらくはなんだか呆然としてしまって、頭では冷静に自分の家までの道のりを辿りながら、心はずっとふわふわしていたように思う。

辛かった。切なかった。こんなに泣くかというほど泣いた。山本賢治という一人の男の人生を容赦なく胸に刻み込まれて、彼が生きた人生に延々思いを馳せてしまう。

ケン坊は、最後までずっとケン坊だった。ヤクザだろうが極道だろうが、それは後から付けられたもの、彼に与えられた場所の名前でしかなくて、彼の根本はずっと変わっていなかった。

わたしは山本に「弱さ」と「ひた向きさ」と「深い愛情」を見出している。彼は一人の男でしかない、それも、とりわけ愛情深くて優しい男。不器用で優しい、ただ彼は誰かを愛したかっただけ。彼の生き様、表情、言葉、眼差し、その全てからわたしはそんな印象を受けた。

血まみれで、泣きじゃくって由香に縋った彼の弱さを、わたしはとてつもなく愛おしいと思った。全力で愛に焦がれ、人を愛した山本は、確かに「愛された人生」でもあったのだと、そこに救いを見出すしかない。

自分の身をかえりみず「親父」を守り、奪われた弟分の命を想って泣き、その仇を取って刑務所に入った山本。

愛した女性を14年想い続け、彼女とその娘の生活を支えたいとヤクザをやめた山本。

こんなにひた向きに生きて、愛して、戦った人生だったのに、そんな彼の生は社会から否定されてしまう。

わたしは、この「社会」というものこそが一番残酷だと思い、それがやるせなくて仕方が無かった。社会の厳しい仕打ちが無ければ、彼は愛する人と娘とずっと一緒にいることができたかもしれないのに。

大切な人に「あなたさえ現れなければ」なんて言われなかったはずなのに。

山本が辛いというだけに留まらず、「山本が愛した大切な人たち」が居場所を奪われ、辛い思いをしなければならないという事実が尚更辛い。

そして、由香さんも細野も、本当はそんなこと彼に言いたくなかったはずなのだ。なぜなら彼らもまた山本を愛しているから。大切だから。

細野が彼を刺したときに零れ出た「ちくしょう…兄貴…」というセリフからもその愛は読み取れる。刺された山本が細野に掛けた言葉は「ごめんな」だった。彼は最後まで、自分の「家族」を愛したのだ。たった一言謝って細野の頬を包み込んだ山本の姿に、涙が溢れて止まらなかった。

ラストシーン、アヤは翼に「お父さんはどんな人だったの?」と問いかけている。このアヤのセリフからは、由香の愛が読み取れる。アヤがケン坊を「お父さん」だと認識しているということは、由香が彼女にそうだと伝えたということであり、それは彼の存在を否定したくないという彼女の気持ちの表われに他ならない。もしかしたら、彼女は山本に言ってしまった「あなたさえ現れなければ」「あなたのことなんて好きにならなきゃよかった」という言葉を後悔していたのかもしれない。

何が正しくて何が間違っているかなんて本当は決められない。ヤクザという存在を生んだのも結局は社会で、それなのにそこでまともな人権を得られない彼らが受けている理不尽を、わたしはどうしても「正しい」と思うことはできなかった。

ヤクザが正しいとは思わない、でも、その存在を迫害することが正しいとも思わない。この世界の善悪って何なんだろうと、一生答えなんて得られないだろう疑問に深く考えさせられた。

山本賢治の生は、排除されるべきものだったのだろうか? 彼は間違った存在で、否定されるべき人間だったのだろうか? 彼の一生は無意味なものだったと思うしかないのか? わたしはそうは思わない。翼、愛子さん、細野、由香、アヤ…山本が愛した彼らの心にはしっかりと山本の愛が刻み込まれている。そこに確かに意味はある。

この映画を観終わってから家に帰るまで、家に帰ってからも、わたしはできるだけ、何の雑音も耳に入れたくないという気分になった。いつもはイヤホンで音楽を聴きながら歩く道を、わたしは無音でただひたすらに歩いた。この映画の余韻に浸っていたかったから、邪魔されたくなかった。ただ、山本の人生を思い、この世界の残酷さを、理不尽さを、人が人に抱く愛の尊さを噛み締めていた。それだけこの映画は、わたしの心に深く刻み込まれたのだ。