以前、「トリリンガル中国人の脅威」という記事の中で、

「英語圏の国々が世界のシステムを構築してコントロールしている状況」と

書きました。(その記事はこちら

 

今回は「英語圏の国々が世界のシステムを構築してコントロールしている状況」について

「グローバリゼーション」の視点から考えていきたいと思います。

 

 

まず、非常に基本的なことですが、度々混同されて使用される用語に

「インターナショナル」と「グローバル」があります。

 

「インターナショナル」とは、「インター」「ナショナル」で、

個々の国家が結びついている様を表しています。

 

一方、「グローバル」は「1つの世界」という考え方が根底にあります。

 

「世界は1つである」ということは「どのように1つなのか」ということと表裏一体です。

ここにグローバリゼーションの本質があるかもしれません。

 

日本にいた時は、「グローバル」というと、

「英語が話せる」「海外で働く」といった曖昧なイメージでした。

 

ところが、米国に住んでいると、「グローバル」は

「力のある国が世界を支配するための方便」なのではないか、

と感じるようになりました。

 

「英米が素晴らしいと思われるためのシステム」

「英米が力を保持するためのシステム」

 

これがグローバリゼーションなのではないか、ということです。

 

 

例えば、インドの状況です。

 

インド人は数理能力が高いとよく言われます。

また、英語力もあります。

 

数理能力が高く、英語もできる人材は良い人材であるように思われます。

しかし、実際は、米国で、英語ができる安価な労働力として扱われています。

 

多くの米国人と話して感じましたが、米国人は、自らやりたくない付加価値の低い仕事を

インドに設立したサービスセンターに低価格で行わせています。

 

一方、インドでは、国内でそのような仕事に従事することは優秀さの証でしょうし、

さらに優秀な人材は、米国、英国に留学して教育を受けます。

そして、そのまま、米国、英国で就職します。

 

彼らは英米で就職したことに誇りを持っており、自信を持っている人も多いです。

 

 

ここにシステム上の明らかな力関係が存在します。

 

国内で外注先として仕事をしてもらうか、

優秀な人には自国に留学してもらい、

自国の教育を施して現地化してもらう。

 

現地化した人は現地化したことに非常に誇りを持っている。

 

 

このように考えると、国としてのブランド確立に大きく成功しています。

 

 

日本でも同様の傾向はあり、国内で英米とやり取りをすることは、

グローバルな仕事として特別な仕事のように感じる人が多くいますし、

世間一般に欧米駐在はプラスの事として認識されているように思います。

 

このように考えると、欧米人のシステム造りの巧みさに

脅威を感じざるを得ません。

 

「優秀な人」に働いてもらって成果を出し、自らが得をすれば良いという考え方は、

自国民は「優秀な人」に働かせて成果を出せる人間が優秀であり、

海外の人間は自国民に資する人間が「優秀な人」であるという

「優秀さ」のダブルスタンダードであり、世界中で自国の利益に資する人間を

「優秀」と定義してしまっているのは恐ろしいことのように思います。