集中審査のもう一つの焦点は、防衛省に向けられた疑惑であった。稲田氏の資質に重点が置かれ、その責任追及という色合いが濃かったのは個人的には残念だった。

この案件に関しては、私は、二つの問題を感じた。防衛省内部の情報流通とその管理の在り方や、物事の決定のプロセスがいかなるものか、ということについて我々は知ってしまったし、その不適切さにあきれさせられた。しかし、安倍政権がよく持ち出す、国民の生命、財産を守るための役所である防衛省については、内部事情を公開の場で明らかにすることに関して少し考える必要があるのではと思うのである。

かつて小池百合子氏が防衛大臣であったときに、致命的な失態を演じたことを私は忘れていないし、あの時点で、小池氏の政治家としての資質についてたかが知れていると私は見抜いたつもりであり、今は都民ファーストやらなんやらで風が吹いているが、のせられているだけで、いずれきっと大きな失望を味わうことになることを予言しても構わない。

その失態とは、なんと防衛大臣たる自分に対する報告がなかったと携帯電話を見せて発言したのである。国の安全保障に関わる内容を含みうるコミュニケーション手段が、携帯電話であるなどということをほのめかすような愚かなことは、絶対にあってはならない。少なくとも我が国の最高の暗号化技術で内容の秘匿性が担保されているような通信手段でなくてはならないし、万一そうでなくても、そういう特別なものを用いているという建前にしておかなければならない。小池氏の政治家としての使命感の希薄さ、就いた立場の人間が職務上則るべき言動に対する自覚ができないという馬脚をさらしていたのである。

国家安全保障についての問題には、公開すべきか否かの繊細な選別が必要なのはいうまでもないことだろう。したがって、この部分に関する審査は、口が軽く信用できない議員が多いけれども、敢えて非公開で行うべきであったのではないかと私は考える。その代わり、結果だけを公表するという取り扱いがよい。
稲田氏の資質については、集中審査など大袈裟にしなくても明々白々であり、防衛省内のゴタゴタについて、開けっぴろげにする必要はなかったのではないだろうか。同盟国から見て、明らかになったような体たらくの日本のカウンターパートと安全保障上の重要機密を共有することはリスキーだと思われても仕方ない。

もう一つの問題は、実際に任務にあたっていた自衛官の功労に対して泥を塗るような上層部のゴタゴタを見せることが、モチベーションに与える影響である。

日報に戦闘という文言が記されたのは、一般人よりも戦闘の何たるやを理解している前線の自衛官が戦闘だと認識したからであろう。海外派遣で自殺した隊員がいたことからもわかるように、その戦闘への巻き込まれにも、駆け付け警護任務の遂行にも至らなかったとはいえ、相当過酷な、そして恐怖を感じずにはいられない周辺状況の中での生活を強いられていたことは想像に難くない。

ところが政治家や防衛官僚は、安保法制が憲法と抵触するのを恐れて、言葉遊びのごとき対応をして、現場からの事実を歪曲したのだと私は考える。

隣で同じ任務に従事している国の軍隊等が攻撃されているのに、それを見捨てられないのは自然な感覚であろう。現場では、我が国は憲法が許さないので加勢はできません、などという理屈は通じないだろう。

だから、初めからそういう現場に自衛隊を送ってはいけないのである。

戦後70年、我が国の実力部隊は、他国との衝突に出て行ってその国の軍人を一人たりとも殺傷したことがないという事実は、我が国の誇りである。

よく言われる話に、時代が変わればその時その時の時代に合わせて、憲法を変えてもよいのではないかというのがある。これは、憲法の意義を十分に理解しての発言ではないと私は思う。

憲法には、国のあり方の理想の姿を指し示すものであるという性質があるということを肝に銘じるべきだ。戦争直後の人々がこぞってその成立を歓迎したのは、彼らが経験させられた戦争のおぞましい現実を痛いほど認識していたからであり、2度とそのような思いをする人々が出ることがないようにという将来への祈りがあったからに違いない。我が国の憲法は、理想の国家像を高らかに謳いあげている。これほど先進的な憲法は他にないと自負できるし、唯一の被爆国である我が国は普通の国ではない。むしろ特別な国なのだ。そしてそれを恥じるのではなく、誇るべきなのだ。

今の劣化した政治家が、その高い理想を反故にするような変更を憲法に加えようとしているのを、我々国民は許してはならないのだと思う。