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パース日本語キリスト教会は、オーストラリア長老教会西オーストラリア中会に所属するHenderson Memorial Presbyterian Churchの日本語部です。日本長老教会と協力関係に有ります。

所在地 101 Kimberley Street West Leederville 6007 WA

集会
日曜礼拝    午後1時より(第五日曜日は合同礼拝のため午前10時半より)

聖書研究会   火曜日午後1時より(現在休止中です。ブログに研究ノートを掲載します。)
プレイグループ 木曜日午前10時より(就学前のお子さんとお母さんのためのグループです。)
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関連サイト等
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2001年にアメリカ人宣教師Stephen Young師によって開拓されました。
Stephen Young師は2013年に帰国し、テネシー州で日本語礼拝の開拓を始めました。
Stephen Young師の現在の奉仕は、こちらと、こちらからご確認いただけます。

2015年10月森本実牧師が就任しました。
献金でご支援いただければ幸いです。
Westpac
BSB 036-048
Account Number 318 792

礼拝音声

 

聖書箇所:詩編52:1-9 

説教題:誰の力に頼るのか
 

序論

詩篇52篇には表題が付いていて、その内容を見るとこの詩篇はドエグとサウル王に関係していることがわかります。詩編52編を理解するためには、その表題の背後にある出来事を知る必要があります。サムエル記第一21章と22章がその背景を伝えています。
  サウルから逃れていたダビデは、ガテへ向かう途中、ノブで祭司アヒメレクを訪ねました。アヒメレクはダビデにパンと剣を与えました。サムエル記第一21章7節には、そこにエドム人ドエグがいたことが記されています。その後、ダビデはハレテの森に滞在しました。その知らせがサウルに届くと、サウルは自己憐憫と被害妄想に満ちた不満をぶつけ、神への信頼ではなく恐れに支配された心をさらけ出しました。人々が謀反を企てようとしるというのです。(サムエル記第一22章7–8節参照)
  そのとき、ドエグが進み出て、自分がノブで見たことを報告しました。(サムエル記第一22章9–10節参照)怒りに燃えたサウルはアヒメレクを召し出し、衛兵たちに彼を殺すよう命じました。しかし彼らが拒むと、サウルはドエグに命じ、アヒメレクと他の祭司たちを殺害させました。(サムエル記第一22章18–19節参照)この背景を踏まえて、詩篇52篇を見ていきましょう。


本論

この詩編は4つの部分に区切って読み取ることができると考えられます。

悪しき舌に対する告発(1–4節)

この部分でダビデは、ドエグに語りかけています。もしかすると、サウル王の事も心の片隅にあったかもしれません。
  ダビデは皮肉を込めて、ドエグを「勇士」と呼びます。ドエグはサウル王の牧者の長でした。当時、牧者は戦士でもある必要がありました。ダビデ自身も羊飼いだったころ、群れを守るために獅子や熊と戦った言っていることを思い出してください。

  1節のヘブライ語原文は、「神の恵み(慈しみ)は一日中続く」とあります。ダビデはここで神を「エル」と呼びます。これは「力ある方」「全能の神」を意味します。彼はこう言っているのです。「お前は、悪意をはるかに圧倒するいつまでも慈しみを保たれる力ある神の前では、取るに足りない存在だ。」

  2–4節では、ドエグの人格が描かれています。彼は「破壊的で欺く舌」を持つ者です。ドエグは、ノブで起きたことをサウルに告げる必要はありませんでした。しかし外国人であった彼は、サウルの歓心を買おうとしました。そのため、サウル王の行動が予測できていても気にせず、更には祭司たちの町全体を虐殺することもためらいませんでした。ダビデはドエグに語っていますが、その言葉は同時にサウル王にも当てはまる部分があります。誤った理解に基づいて祭司の虐殺を命じたのは、サウルだったからです。


神のさばきの宣言(5節)

5節は、ドエグに対する神のさばきを宣言しています。ここでもダビデは「エル」という神の名を用い、全能の神ご自身がさばきを下されることを強調しています。そのさばきは三重です。神は彼を捕らえ、居場所から引き抜き、生ける者の地から根こそぎにされます。これは、彼の滅びが完全であることを示しています。このさばきは、2–4節で三回に分けて語られたドエグの偽りの舌への告発と対応しています。ドエグが言葉によって人々を滅ぼしたように、今度は神が彼を滅ぼされるのです。


正しい者たちの応答(6–7節)

正しい者たちは神を畏れ(恐れ)、畏敬の念をもって応答します。彼らは笑い、神のさばきを喜びます。そして、ダビデが下した告発が正しかったことを追認して語っています。ドエグの失敗は、神を信頼しなかったことにあります。彼は神ではなく、サウルから与えられた富や、自分の戦いの力を信頼しました。


ダビデの信頼の告白(8–9節)

ここでダビデの焦点は自分自身に移ります。正しい者たちの応答を受けて、彼は神への信頼を告白し、宣言します。

  ダビデは自分を「青々としたオリーブの木」にたとえます。原文では「青い(生き生きとした)」という言葉がオリーブの木を修飾しており、命に満ちていることが強調されています。その命の源は「神の家にあって」という言葉に示されています。彼の心と人生は、信仰と礼拝に深く根ざしているのです。ドエグとは異なり、ダビデは神の恵み、すなわち尽きることのない愛に信頼しています。これは1節とつながっています。神は永遠であり、その恵みによって、私たちの神にある命も永遠なのです。

  9節でも、ダビデの信仰の告白が再び響きます。彼はまだ同じ隠れ場にいるかもしれませんが、神に希望を置いています。神のご性質に期待し、神は良いお方であると告白します。世々限りなく、とこしえに、という同義語の繰り返しにより、神が永遠の御存在であることを強調し、更に、自分が神の恵みによってその永遠の命の中に入れられることの確信を示しています。

  またダビデは、信仰が私的なものにとどまらないことを強調します。彼は「あなたの聖徒たち」(他の信者たち)の前で神をほめたたえることを誓います。そうすることで共同体の信仰を強め、悪は栄えないことを思い起こさせるのです。


まとめ

おおきな区切りで見ると、この詩編はドエグの悪とダビデの善の性質の対比になっています。当然私たちはダビデを模範にしなければなりません。この詩編がどのようにダビデの姿勢に倣うように促しているかをまとめてみます。
  1. 神の力と恵みに信頼せよ
    ダビデは勇士でしたが、自分の力を信頼しませんでした。彼は神の恵みに信頼し、神に望みを置きました。神の慈しみは一日中続くこと(1節)、そして尽きることのない愛に信頼していることを告白しています。

  2. 神との交わりの中に命を見いだせ
    ダビデは、自分の命と力が神との交わりから来ることを強調しています(8節)。ドエグとサウルにはこの関係がありませんでした。私たちはそうであってはなりません。

  3. 神の偉大さを告白し、主を待ち望め
    ダビデは神の力、誠実さ、愛、そして恵みを告白します。神の偉大さを知るがゆえに、彼は他の信者たちと共に主を待ち望むのです。

礼拝音声

 

「地を受け継ぐ者」

詩篇37篇1–40

序論

詩篇37篇は、教訓的詩篇の一つに数えられています。この詩篇は、敬虔な人の歩む道を教えています。全体を通して、悪しき者の道と正しい者の道とが対比されています。この詩篇の中で、敬虔な人々は「地を受け継ぐ者」として七回言及されています(3、9、11、18、22、29、34節)。これは、私たちに対する神の目標であり、また約束です。
「受け継ぐ」という表現が繰り返されているのは、私たちがこの目標を目指して歩み、神の約束を信頼すべきであることを強調しています。

語句研究:「地」と訳されている語は、単にイスラエルの地を指すだけでなく、神の支配が確立される領域、あるいは場所をも意味します。これは、主の祈りにある次の言葉を思い起こさせます。
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」
この詩篇が教えている、「だれが地を受け継ぐのか」ということを共に学んでいきましょう。


本論

1.彼らは腹を立てず、主に信頼し、主を待ち望む(1–11節)

「腹を立てるな」という言葉が、この詩篇の最初の命令です。
語句研究:「腹を立てる」とは、「熱くなる」「怒る」という意味です。この命令は、この箇所で三度繰り返されています(1、7、8節)。要するに、「決して腹を立ててはならない」ということです。

その理由は8節に示されています。「それは悪を行うだけだ。」ヤコブも次のように記しています。
「人の怒りは、神の義を実現しないからです。」(ヤコブ1:20)

神は、私たちが怒ることではなく、へりくだることを求めておられます(11節)。神は不正を行う者の存在をよくご存じですが、彼らが断ち切られる存在であることも、私たちに覚えさせようとしておられます。
語句研究:「断ち切られる」とは、「滅ぼされる」「消え失せる」という意味です。したがって、彼らは「いなくなる」のです(10節)。

神は、私たちが主に信頼し、主を待ち望むことによって、地を受け継ぐ者となることを望んでおられます(3、5、9節)。

 

2.彼らは永遠の展望をもって生きる(12–26節)

悪しき者は、自分の将来に目を向けていません。13節には、主が彼を笑われるとあります。それは、彼の日が近づいているのを主が見ておられるからです。この時制は、彼の終わりが間近であることを示しています。

悪しき者は正しい者に敵対してはかりますが、その暴力は自分自身に返り、彼自身に降りかかります(15節)。彼は打ち砕かれ(17節)、滅び失せ(20節)、断ち切られます(22節)。
そのような結末を、私たちはうらやむでしょうか。決してそうではありません。だからこそ、この詩篇の最初の命令は、「悪を行う者のゆえに腹を立てるな」なのです。

一方、地を受け継ぐ正しい者は、永遠の展望・視点をもって生きています。彼らは神の前に正しく、全き者とされ(16–18節)、主によって支えられ(17節)、その相続は永遠に続きます(18節)。
主に信頼する者の道を、主は喜ばれ(23節)、御手をもってその人を支えてくださいます。単数形で語られていることは、神が一人ひとりを個人的に顧みておられることを示しています。
永遠の神が自分を顧みておられることを知っているからこそ、正しい者は永遠の視点をもって生きるのです。

 

3.彼らは主に身を避け、道を主にゆだねる(27–40節)

27節には、明確な霊的原則が示されています。
語句研究:「悪」とは、「邪悪な」「有害な」「不快なもの」を意味します。神にとってそういう悪を考えます。神を退け、神に信頼しない生き方こそ、私たちが離れ去るべき悪です。

では、究極の「善」とは何でしょうか。それは、父なる神のわざを行うこと、すなわち、神が遣わされたイエス・キリストを信じることです。(ヨハネ6:29)これこそが、28節にある、神が愛される正義です。

私たちがイエス・キリストの義にあずかるとき、30節の言葉は真実となります。その人の心には神の律法があり、その歩みはよろけることがありません(31節)。私たちはイエス・キリストの福音を告白し、その教えを心に留めて生きています。
詩篇記者は、神の顧みと守りを示し続けることで、読者を励ましています。苦難の時にあっても、神は私たちを導き通してくださいます(33節、39節後半、40節)。
正しい者が地を受け継ぐのは、主に身を避けているからです(40節)。

 

まとめ

詩篇37篇に見られるすべての命令、約束、祝福は、「正しい者が地を受け継ぐ」というテーマと結びついています。ここで、改めて「地を受け継ぐ」という表現の近くに見られる要素を整理してみましょう(必要に応じて説明を加えます)。

1.     主に信頼すること(3節)

2.     主を待ち望むこと(9節)

3.     へりくだり(11節)—山上の垂訓に通じる表現になっています。

4.     全き者の道を歩むこと(18節)

5.     神が祝福される生き方をすること(22節)

6.     正しい者として生きること(29節)

7.     主を待ち望み、主の道を守ること(34節/9節の繰り返し)

8.     神からの救いを受けること(39–40節)

1.彼らは腹を立てず、主に信頼し、主を待ち望む(1–11節)

私たちは、不正や悪を行う者に対して、怒りで応じるべきではありません。すべてのさばきを主にゆだね、主に信頼するのです。

2.彼らは永遠の展望をもって生きる(12–26節)

18節を思い起こしてください。
私たちは、イエス・キリストの恵みによって全き者とされ、キリストの義を着せられました。私たちの相続は永遠に続きます。ですから、永遠の視点をもって生きましょう。

3.彼らは主に身を避け、道を主にゆだねる(27–40節)

キリストのうちに身を避けなさい。あなたの道を主にゆだねなさい(5節)。主に道を委ねることこそが、主に身を避ける生き方なのです。

礼拝音声

 

聖書箇所:ヨハネ 1:9-13

説教題:主を待ち望む姿勢

 

序論
待降節(アドベント)に入っています。クリスマス前の四つの日曜日をアドベントと呼びます。“Advent(アドベント)”という言葉はラテン語に由来し、「到来」を意味します。この期間、私たちはクリスマス――すなわち主の最初の到来――を祝う準備をすると同時に、主の再臨にも心を向け、期待します。// また、日々の生活の中でのキリストの臨在(来臨)にも心を向ける必要があります。Wikipedia には、キリスト教徒の語るアドベント・来臨には三つあると説明されています――すなわち、ベツレヘムでの肉体をもっての来臨、日々私たちの心への来臨、そして終末における栄光のうちでの来臨です。// つまり、アドベントの心構えは、クリスマスの時期だけのものではありません。私たちはいつもこの態度を持つべきです。では、どのような態度を持つ必要があるのでしょうか。


本論

1)私たちはイエス・キリストを慕い求める心を持つ必要がある

この宣言は、イエス・キリストを受け入れたユダヤ人にとって大きな喜びであったに違いありません。ユダヤ人は千年以上にわたってメシア、キリストの到来を待ち望んでいました。その到来は100回以上も預言されていました。また、キリストの来臨は神の最大の約束であり、神の愛の最高潮でもあります。

 現代のキリストの弟子である私たちも、日々の生活の中でキリストを慕い求める心を持つ必要があります。その態度は、主の臨在を歓迎したり、主の主権を告白したり、御言葉に従う力を求めたりすることとして表せます。主の祈りを頻繁に祈ることも、その実践の一つです。


2)私たちはキリストを受け入れ、従う準備を整える必要がある

ユダヤ人はキリストを待っていたにもかかわらず、多くの人はイエスを認めませんでした(10節)。ルカ3:15は、民がどれほどキリストを待望していたかを示しています。バプテスマのヨハネがイエスこそキリストであると証ししたのに、誰もがイエスに従ったわけではありません。彼らはキリストを認識せず、受け入れず、自分たちに与えられた恵みと祝福を知りませんでした。

 同様に、私たちもキリストを受け入れ、従う準備をしていなければなりません。多くのユダヤ人がイエスを受け入れられなかった理由の一つは、自分たちの抱いていた「キリスト像」と実際のイエスが違っていたからです。しかし私たちは、キリストを自分の考えや願望の枠に押し込めてはなりません。その態度を持つなら、日々の中でキリストの恵みや祝福を見いだすことはできません。霊的に目を覚ましていなければ、主の恵みを見落としてしまいます。聖書を通してイエスがどのようなお方かを学び、常に心に刻み、主の教えに従いましょう。


3)私たちは積極的にキリストの恵みを求め、体験する必要がある

ヨハネが語るように、世はキリストを認めませんでした。しかし、その中には積極的に主を求め、キリストとして信じて受け入れた人々もいました。そのような信仰が、恵みと永遠のいのちへの扉を開きます。この信仰によって、私たちは「神の子どもとなる特権」(権利、権限、資格)を与えられました。13節。しかし、その特権は私たちの力や決断によるのではなく、神によって与えられたことを忘れてはなりません。神に選ばれた人々の中に、アンデレがいました(彼が誰で、何をしたのか。ヨハネ1:35–44参照)。

  もし私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れなければ、アドベントカレンダーをめくったり、クリスマスを祝ったりすることには何の意味もありません。私たちは信仰によって歩む必要があります。恵みを数え、主の命令に従い、聖霊との交わりを持つ必要があります――聖書を読み、祈りの時間を持つことによって。それは時に労力に思えるかもしれません。しかし、幼子イエスを礼拝するためにやって来た東方の博士たちを思い出してください。彼らはキリストを求める熱心さを持ち、長い旅をしました。彼らはイエスを王、また神として礼拝しました。捧げた贈り物の一つ没薬は、キリストの死と復活を暗示しています。彼らは喜びに満ちて帰っていきました。一方、ベツレヘムの人々は自分たちの救い主がすぐそばにおられることに気づきませんでした。私たちは博士たちのような期待を持つ必要があります。その期待があるとき、私たちは神との霊的な交わりを積極的に求めるようになります。求めれば求めるほど、与えられる恵みは増し加わります。


結論

主を待ち望む者の態度を三つ、振り返りましょう。

1)イエス・キリストを慕い求める心を持つ
「キリストにあって力強く生きたい」「主の弟子として歩みたい」「もっと主の恵みを見たい」――このような心構えを持ちましょう。

2)キリストを受け入れ、従う準備をする
キリストがどのようなお方か、何を教えられるかは、私たちには理解しにくいこともあります。しかし、主は創造主であり、私たちはその御手の作品です。だからこそ、主を受け入れ、従う必要があります。

3)積極的にキリストの恵みを求め、体験する
神によって「神の子どもとなる権利」を与えられた者として、日々の生活の中でキリストを求めましょう。御言葉と祈りを通して、主の恵みをさらに深く味わいましょう。永遠のいのちはすでに主の恵みによって始まっています。

合同礼拝、バイリンガル礼拝でした。音声は有りません。

教会創立130周年を記念して、教会史を辿るスライドを上映しました。

来場者の中には、1950年代の写真に自分が写っていると仰る人がいました。

 

聖書箇所:詩編 47:1-9

説教題:とにかく賛美の歌をうたえ

 

序論)
詩篇47篇の背景について、私たちは確かなことを知りません。大国に対する勝利をほのめかし、イザヤ書に見られる表現が使われているため、ヒゼキヤ王がアッシリアに勝利した際のことを指している、と考える学者もいます。しかし、この詩人が表す礼拝の姿勢は、その歴史的背景よりもはるかに重要です。この詩篇に見られる礼拝の心を探っていきましょう。

 

本論)

1)神を賛美することは必須である
この詩篇のテーマが神への賛美であることは明白です。1〜2節は、神の偉大さ、力、主権を認めるよう私たちに促しています。神はすべての上に立つ王です。6〜7節でも再び、同じ視点から神の偉大さを賛美するよう呼びかけています。特に6節では、「ほめ歌をうたえ」という言葉が4回繰り返され、強く賛美を促しています。

聖書的な象徴において「4」という数字は、普遍性や全世界を表すことがよくあります。この4度の繰り返しは、賛美が全方位から、すべての国々、すべての民からささげられるべきことを示唆しているのかもしれません。それは、「地のすべての王」である神という、この詩篇のテーマを映し出しています。

私たちが神を賛美することは任意ではありません。絶え間なく、力強く、心から行うものです。主を賛美しましょう!

2)神の偉大さゆえに賛美することは必須である
作者は神の偉大さに目を向けています。2〜3節では、私たちの神は「いと高き方」であり、恐るべき方であり、全地を治める方であると語られています。神は国々と民すべての上に権威を持っておられます。

「私たちのもとに」「わたしたちの足もとに」という表現は、神がその権威によって敵に対する勝利を与えてくださることを示しています。

7〜8節でも、神が「全地の王」であることが改めて強調されています。神は天の御座におられる王として、すべてのものの上に権威をお持ちです。だからこそ、私たちは神を賛美すべきなのです。

3)神の偉大な恵みゆえに賛美することは必須である
神の偉大さによって、神の民は強い敵に対する勝利を得ました。これは、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいて与えられたものです(4節参照)。神はご自分の民を愛され、選ばれたのです。結びの9節でも、詩人は「アブラハムの神の民」に触れています。ここでアブラハムが言及されていることから、4節とも共鳴する「選ばれた民」という意識が作者の念頭にあるようです。

神は強い敵に対する勝利を与えられました。
私たちクリスチャンも、同じ神によって選ばれ、愛されています。私たちはサタンと罪から解放されました。この大いなる恵みのゆえに、私たちは神を賛美すべきです。

 

結論)
9節は、この詩篇の締めくくりとして、それまでに語られたテーマをすべて結び合わせています。神は宇宙の王であり、すべての民と国々を従えられます。神は私たちを選び、救ってくださいました。だからこそ、私たちは大いに神をあがめるべきです。主を賛美しましょう!

さらに、クリスチャンとして、5節にも注目すべきです。そこには、即位と昇天のイメージが含まれています。(エペソ4:8–10参照)

イエスは私たちを救うためにこの世に来られました。
私たちの罪の贖いのために十字架で死なれ、復活し、天に昇られました。

そしてその権威をもって、イエスは黙示録3:21で忠実な者をイエスの王座に共に座らせると言っています。

歌うことに留まらず、告白や祈りをもって、私たちは主を賛美すべきです。

礼拝音声

 

聖書箇所:エペソ 4:1-16

説教題:成長する教会

 

序論
マタイ28:20にあるイエス様の大宣教命令から考えますと、教会の成長は神様の願いであることがわかります。本日の聖書箇所には、教会が成長するためにあるべき姿が述べられています。量的成長も質的成長も含め、この箇所から、私たちが教会成長に関する神の御心を求めてまいりたいと思います。

 

本論

1)召命に応え、一致のために努力する教会(1節)

当時の世相を思い起こしますと、キリスト者として生きることは非常に困難でした。イエス様ご自身が拒絶され、クリスチャンも迫害を受けることが多かったのです。パウロも1節で語っているように、宣教のゆえに囚人となっていました。しかし彼は、自分の必要よりも教会の必要を優先し、心を砕いて手紙を書いています。

教会は、耐え忍びつつ召命に応えようとする時に成長してきました。今日の西側諸国では、私たちが同じような迫害を経験することはありません。しかし、世相はますます聖書的価値観を受け入れない方向へと進んでいます。だからこそ、一度立ち止まり、改めて召命に応える努力を考える必要があります。

この箇所における召命の具体的な実践とは、「一致のために努力する」ことです。
その努力のための三つの着眼点が、2~6節に示されています。

  1. 謙遜、柔和、寛容を常に意識し、限りを尽くして努力すること(2節前半)
     キリストがそうされたからです。かつては謙遜は奴隷の特性とみなされていましたが、今では徳とされます。
  2. 愛をもって互いに忍び合う努力をすること(2節後半)
     私たちは神に忍耐を求めて祈ることがありますが、その同じ忍耐を他者に対しても働かせることが求められます。
  3. 聖霊聖書の教えの一致を保つ努力をすること(36節)
     ここには「一つ」というリストが示されます。三位一体の神、その教え(信仰、バプテスマ)、そしてキリストの体なる公同の教会です。神ご自身が一致の原則を持っておられるのですから、その似姿を目指す私たちも一致を追求する必要があります。

 

2)キリストの賜物の恵みに留意する教会(710節)

7節には「ひとりひとり」に賜物が与えられていることが示されています。同じ賜物ではなく、限度なくでもなく、それぞれに「相応しく」与えられています。それはキリストにあっていただいたものであり、信仰によって初めて用いることができます。

8~10節では、この賜物がどれほど栄光に満ち、貴重であるかが説明されています。その前提には、イエス様が十字架で死なれ、葬られ、陰府にくだり、三日目に復活し、天に昇られたという出来事があります。私たちが非常に尊い賜物をいただいているのだという自覚が必要です。

背景として、ここでは王や将軍の凱旋の様子がイメージされています。十字架の勝利により、敵であるサタン・悪霊・死を無力にされたことが捕虜にたとえられ、敵が用いていた力や才能が戦利品のように民に分け与えられたと描かれています。民は戦っていないのに戦利品を受け取ることがあったように、私たちも自ら戦ったわけではないのに、イエス・キリストの勝利によって才能や力を聖なる業に用いることができるようにされたのです。

この恵みと賜物を尊いものと認識し、教会のために意識して用いる努力をすることが大切です。
たとえ自分の賜物がはっきりしていなくても、神が賜物を与えてくださっていると確信し、それを教会と兄弟姉妹のために用いる場を求めていくことが、教会の一致と成長につながります。

 

3)奉仕の働きと聖書の学びを継続する教会(1116節)

ここでパウロは、先に述べた二つのポイントを、より具体的にまとめています。

11節では、イエス・キリストが十字架の御業を通して教会を誕生させ、そこに仕える指導者の務めを創設し、それを賜物の一部として与えられたことが示されています。

12節では、賜物の働きのつながりから、まず「聖徒を整えて奉仕の働きをさせる」ことが語られています。私たち一人一人の奉仕と参加が教会を建て上げ、成長させるのは明らかです。

その裏付けとなるのが、聖書の学びです。パウロはこの点について三節を費やし、「信仰の一致と、神の御子に関する知識の一致」が必要であると語ります。この一致に至るためには、ディボーションや通読、説教を聞くだけでなく、聖書の言葉そのものを学ぶことが欠かせません。

「読めばわかる」「勉強してはならない」といった極端な意見を聞くことがありますが、パウロの言葉は明らかに“学びが必要である”と述べています。現代では時代背景・文化背景・原文の理解が伝わりにくいため、なおさら重要です(家族を憎ませる異端の例など。14節)。

13節と15節では、「キリストに達する」という表現が繰り返されています。私たち人間が地上でイエス・キリストと全く同じになることはありません。この表現の意味するところは、イエス様が父の御心をすべて理解しておられたように、クリスチャンもキリストの教えを心に留め、それに従って行動できるようになることです(ヨハネ15章参照)。その教えを伝え、守らせることが、パウロをはじめとする使徒たちの使命でした。

16節では、聖書の知識と賜物の実践をもって互いに奉仕しあうことが再び強調され、まとめられています。教えも賜物も、どちらもキリストから来ます。だからこそ、いつもキリストに目を留めていなければなりません(ヘブル12:2)。

 

結論

日本語教会がどのように成長していくのか、まだ明確ではないかもしれません。しかし、神の御心を求め、成長を目指して進んでまいりましょう。

成長する教会とは、
1)召命に応え、一致のために努力する教会
 ① 謙遜・柔和・寛容を意識し、限りを尽くして努力する
 ② 愛をもって互いに忍び合う
③ 聖霊と聖書の教えの一致を保つ

2)キリストの賜物の恵みに留意する教会
 賜物と十字架の救い・勝利の関係を意識し、心に深く留め、賜物を大切にしつつ用いる。

3)奉仕の働きと聖書の学びを継続する教会
 成長・建て上げ・達するという働きは一瞬のことではなく、継続によって実現します。3節で始まった「一つである」というテーマが、16節でも締めくくられ,キリストにある一致を絶えず思い起こし、追い求めるよう促しています。私たちも、キリストにあって成長する教会として、ともに前進していきましょう。

礼拝音声

聖書箇所:2テモテ 3:14-17

説教題:みことばに留まりなさい

序論

これはパウロがテモテに宛てた第二の手紙です。彼が牧会者として担っていた務めは、Ⅰテモテ1:3–4に記されているように、エペソの諸教会を偽りの教えから守ることでした。この時パウロは人生の終わりが近づいており、この手紙は遺言のような意味合いを持っています。朗読箇所の中心的メッセージは「みことばに留まりなさい」です。偽教師たちは信徒たちを悩ませ、迫害さえしていました(12–13節参照)。その状況の中でパウロはみことばに留まることを勧めています。

語句研究:「とどまっていなさい」という言葉は、ヨハネ15:4–9でも用いられており、共通の意識が有ります。では、私たちが神の教えと聖書に「とどまり続ける」ために、みことばの性質、本質を確認してみましょう。

 

Ⅰ.正統で信頼に足るみことばにとどまりなさい(14節)

1.     テモテは使徒パウロから福音を学びました(14節)。「使徒」とは「主人に忠実な使者」という意味であり、その教えはイエスの教えに忠実で真実です。

2.     テモテは幼い頃から聖なる書(旧約聖書)を知っていました(15節)。母親がユダヤ人で、おそらく5歳前後から聖書に慣れ親しんだと思われます。

3.     聖書は神の霊感によるものであり、ゆえに真実であり、信頼に足ります(16節)。

// パウロがテモテの人柄と資格を述べる際、偽教師たちを念頭に置いていたと思われます。偽教師たちはテモテとは正反対でした。
1’) 彼らは使徒ではありませんでした。
2’) 彼らは伝承、系図、作り話、さらにはギリシア哲学といった誤った情報源に頼っていました。
3’) 彼らの教えは神からではなく、人間の高慢から出ており純粋な動機に基づくものではありませんでした。

 

Ⅱ.救いへと導く力のあるみことばにとどまりなさい(15節)

1.     みことば(当時は主に旧約聖書)は明確にイエスを指し示しています。ルカ24:25–27で、イエスご自身のことを旧約からご自分について説明されました。今日私たちはさらに新約聖書も与えられており、より明確にキリストを知ることができます。

2.     みことばは私たちがイエスを理解し、確信する助けとなります。「確信している」(14節)と「知恵があるようにする」(15節前半)は、ともに真の理解に至るという意味を含んでいます。

3.     その条件は「キリスト・イエスにある信仰によって」です(15節後半)。みことばは信仰を呼び起こし、私たちを救いへと導きます。しかし、旧約聖書を持っていた人々でも、救いに至るイエスへの信仰を欠いていることもあったのです。

// 異端の教えは今日も教会に入り込もうとします。たとえば「全能神教会」や「新天地」などがあります。警戒しなければなりません。

 

Ⅲ.私たちを十分に整えるみことばにとどまりなさい

聖書は真実で神の霊感によるものですから、その良い御性質が私たちの生活に反映され、有益となります(16節)。語句研究:有益=助けとなる、役立つ、有利な。

パウロはみことばの有益さを次のように述べています:

1.     教え――健全な教訓、教理を示すこと。

2.     戒め(誤りを正すこと)――理論的に誤りを指摘し、反論すること。

3.     矯正――正しい状態へと立ち戻らせ、品性を改善すること。例えば互いに愛し合うこと、御霊の実を結ぶことについて。

4.     義の訓練――特に子どもの教育に用いられる語で、徳を高めるための鍛錬を意味する。「義において」との語は、神に喜ばれる状態を表します。偽りの教えは決して義に至らせることはありません。

みことばにとどまる時、私たちは あらゆる良いわざのために十分に整えられます
語句研究:十分に整えられた=完全に仕上げられ、目標に到達した状態。
良い=役に立つ、喜ばしい、尊い。

みことばにとどまるなら、私たちのわざは良く、役立つものとなります(ヨハネ15:4–9参照)。反対に、偽りの教えは無価値で、プライド、混乱、不安、さらには迫害を生み出します。思いあがって仲間を見下すようになり、見下された方は自分の信仰や救いについて不安になったりするものです。だからこそパウロはテモテに「みことばを宣べ伝えなさい」(4:2)と強く命じたのです。

 

まとめ

パウロはテモテにみことばにとどまるように勧告しましたが、同時にテモテの務めは、偽りの教えによって他の人々の信仰が破壊されないよう、教会に神のみことばにとどまるよう励ますことでした。

1.     正統で信頼に足るみことばにとどまりなさい(14–16a節)
テモテの信仰は使徒パウロと聖書からの健全な教えに基づいていました。聖書は神の霊感によるもので、完全に信頼できます。私たちの確信は、人間の思想ではなく、神の真理である聖書に基づいています。

2.     救いへと導く力のあるみことばにとどまりなさい(15節)
旧約聖書は明確にイエス・キリストを指し示します。みことばは救いに至る知恵と理解を与え、信仰と結びついて私たちを救いへ導きます。私たちは福音をゆがめる偽りの教えから身を守る必要があります。

3.     私たちを十分に整えるみことばにとどまりなさい(16–17節)
神の霊感によるみことばは私たちの人格を形づくり、有効な奉仕へと整えます。教え、戒め、矯正し、義の訓練を行い、あらゆる良いわざのために私たちを完全に備えるのです。

パウロがテモテに、そして私たちに告げるメッセージは明確です。
神のみことばは真実であり、救いをもたらし、あらゆる良いわざに十分な力を与えるものです。信者はみことばにとどまり続けることによって、忠実で実を結び、キリストに堅く立つ者となります。

礼拝音声

 

聖書箇所:1 ペテロ 1:22-2:3
説教題:み言葉を慕い求めよ

序論

1章1節を見ると、ペテロがユダヤ人クリスチャンに宛ててこの手紙を書いていることがわかります。散って寄留しているという表現からそのことが判ります。しかし、その勧めは、現代の私たちにも当てはまる内容になっています。朗読箇所のペテロの勧めの中心は「神の言葉」です。神の言葉について、ペテロが述べることを確認してみましょう。


本論

1)神のことばは生きており、いつまでも残る

22節の中心的な命令は「互いに愛し合いなさい」です。その理由が23節に記されています。
その主な理由は「あなたがたが新しく生まれたから」です。この新しい誕生は「朽ちることのない種から」、すなわち「生きていていつまでも残る神の言葉によって」なされたのです。

ペテロはこの真理をイザヤ書40章8節の引用によって裏づけています(引用部分は24~25節)。
そして、その「朽ちることのない種」―すなわち神の言葉―が、ペテロが読者に宣べ伝えたメッセージそのものであることを示します。つまり、それはイエス・キリストの福音なのです。

「朽ちることのない」と訳された語には、復活した者の不死性という理解が含まれています。
イエス・キリストの福音は、永遠の御子によって啓示されたものですから、決して朽ちることはありません(ヨハネ1:1, 14参照)。したがって、ペテロはここで、福音が人間の哲学のような一時的なものではなく、永遠の神から出たものであると語っています。

ゆえに、私たちは永遠の神の言葉―イエス・キリストの福音―によって新しく生まれた者として、互いに愛し合うべきなのです。神の言葉は「生きており、いつまでも残る」のです。

 

2)神の言葉は、互いに愛し合うことを命じる

22節の中心的命令である「互いに愛し合いなさい」は、「今や~となったのだから」という意味になる副詞句によって修飾されています。これは、すでに読者がよく知っている事実や状態を前提としています。

1.     あなたがたは御霊によって道徳的基準を変え(清められ)ました。

2.     あなたがたは真理に従うことによって新しい命にあずかりました(ヨハネ14:6、15:9–14参照)。

3.     イエスの命令に従うことによって、互いに愛し合う者とされました。

ここで、ペテロが語る「愛」とはどのような愛なのかを理解する必要があります。

·        真実な愛 ― 偽りや偽善のない愛。

·        心からの愛 ― 外面的ではなく、心の奥からの愛。

·        熱心な愛 ― 全力を尽くして、努力して愛すること。

☆ ここで大切なのは、「愛とは選択である」ということです。
それは単なる感情や心地よい気分ではありません。イエスが私たちを愛して十字架で死なれたとき、それは感情的な愛ではなく、意志的な愛でした。

「クリスチャンは偽善者だ」と言う人がいますが、私たちは神の命令に従い、義務と忠実さをもって愛するのです。それこそが、神の言葉が命じている「互いに愛し合う」ということであり、私たちが当然するべきことなのです。

 

3)神のことばは、私たちを成長と完成へ導く

2章1節は「ですから」で始まります。
1章から続く原則を踏まえて、ペテロは「純粋で霊的な御言葉の乳を慕い求めなさい」と勧めます。
それこそが聖書、すなわち神のことばです。

語句研究:

·        「慕い求める(crave)」― 深い愛と願いをもって追い求める。

·        「純粋な(pure)」― 偽りのない、本物の。

ペテロはここで、神のことばを慕い求める方法を示しています。

1.     五つの悪しき行いを捨てること(1節)
i) 悪意 ― 他人を害したいという心。
ii) 欺き ― 狡猾さや不誠実さ。
iii) 偽善 ― 利己的な目的のために善人を装うこと。
iv) ねたみ ― 妬みや欲しがる心。
v) 悪口 ― 他人をけなしたり中傷すること。
つまり、神以外のものを頼りにして満足を見出してはならないということです。

2.     乳飲み子のように慕い求めること(2節)
このイメージは1章23節の「新しく生まれた者」というテーマとつながっています。
i) 乳飲み子は1節で挙げられた悪を知りません。具体的に想像してみてください。
ii) 乳飲み子は乳だけから栄養を得ます。同じように、私たちの霊も聖書の真理だけから養われるべきです。この世の哲学等に耳を傾けてはいけません。

3.     成長と完成を目指すこと
神の言葉を慕い求める目的は、救いにおいて成長し、完成へと導かれるためです。
すなわち、義とキリストの姿に似た者となり、「互いに愛し合う」という命令を全うすることです。

4.     主の恵みを思い起こすこと(3節)
私たちはすでに「主が慈しみ深い方であることを味わっているのです」(詩篇34:8、103:1–5参照)。だからこそ、神のことばを読むとき、主の善さを思い出し、そのことばによって変えられていきましょう。

 

まとめ

ペテロは、

·        「朽ちるもの」と「朽ちないもの」(1:23)、

·        「神のことば」と「人の栄光」(1:24–25)、

·        「互いの愛」と「五つの悪」
の対比を示しています。

もし私たちが五つの悪しき行いによってより良い人生を得ようとするなら、それは神への不従順であり、真の愛を実践することはできません。その結果が2章6~8節に描かれています。

神のことばは生きており、いつまでも残ります。
そのことばは私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じています。
そして私たちが神のことばを慕い求めるとき、霊的に成長し、成熟へと導かれます。

2章6節の約束どおり、神と神のみ言葉に信頼する私たちは決して失望させられることはありません。神の約束は、私たちを守り、支え、祝福します。

詩篇34篇8節に「主の恵み深さを味わい、これを見よ」とあります。
ペテロも「私たちはすでにその恵みを味わった」と証ししています。

ですから、私たちも神の言葉を慕い求め、主の恵みと祝福のうちにとどまり、キリストにある完成を目指して進んでいきましょう。

礼拝音声

 

聖書箇所:1サムエル 25章

説教題:知恵と愚かさ

 

序論

今日の聖書朗読箇所(32〜34節)で、ダビデはまず神を賛美しました。その後、アビガイルに好意的に語り、ナバルに下るであろう滅びについて言及します。今日はこの第25章全体を通して、どのような出来事が起こったのかを見ていきたいと思います。

 

本論

この章は、預言者サムエルが死んだ後のダビデの経験を記録しています。ダビデはサムエルの葬りに立ち会ったようで、その後マオンへ移動しました。そこにはナバルという名の人が住んでおり、2節によると非常に裕福で、羊毛の事業で財を成していたようです。3節ではナバルとその妻アビガイルの性格が紹介されます。以下の出来事は、その特徴をよく示しています。
 

まず、ナバルの横暴さが表に出ました。ダビデはナバルが羊の毛を刈っていると聞き、使者を送り食料を求めました。羊毛刈りは祝いの時期であり、その働きに関わった人々にも分け与える慣習がありました。ダビデとその部下は、荒野でナバルの家畜や羊飼いたちを外敵から守っていたのです(7節、15–16節参照)。ダビデの使いの言葉は丁寧で謙虚でした。イスラエルの挨拶には「平安」の祝福が伴うのが常であり、彼はナバルに三度も祝福を述べ(6節)、自らを「あなたの子ダビデ」と呼んでいます。

しかし、ナバルの答えはひどいものでした(10〜11節)。彼はダビデが誰であるかをよく知っていたはずです——エッサイの子であり、サウル王の婿であり、サムエルによって油注がれた者です。おそらく彼はサウル王に味方し、神の選ばれたダビデを退けたのでしょう。
 

それを聞いたダビデの怒りは激しく、訓練された兵士400人を率いてナバルの家を滅ぼそうと決意します。彼の怒りには二つの理由がありました。
第一に、命を懸けて戦う兵士たちにとって名誉は極めて重要であり、ナバルの侮辱はそれを踏みにじるものでした。
第二に、古代の王たちはしばしば敵対する家系を皆殺しにしていました。ダビデはすでにイスラエルの王として油注がれていたのです。ダビデはその時代の政治的習慣に従って行動したと考えられます。
 

ここで、アビガイルの人格が現れます。ナバルのしもべの一人が危険を悟り、すべてを彼女に報告しました(14~17節)。彼女は即座に行動を起こします。しもべとアビガイルの判断は正しく、ダビデはすでに攻撃のために出発していました(22節)。

アビガイルがダビデに語った言葉は実に見事でした。
まず、彼女は自分のせいとして罪を引き受け、赦しを願いました(24節、28節)。実際の過ちはナバルのものでしたが、彼女は執り成し、謝罪したのです。
次に、彼女は神への確かな信頼を表しました(26節、28–29節)。サムエルがダビデに油を注いだのは神の御心によると信じていたのです。
さらに彼女は、神の導きを求めずに行動しないよう賢く忠告しました。

1.     神は必ずダビデの王国を確立されること(28–29節)、

2.     裁きは神ご自身のものであること(29、31節)、

3.     イスラエル同胞を殺せば、将来の治世に重荷とつまずきとなること(31節)。

彼女は嘆願の中で「主」という言葉を七度も口にしています。神はこの賢く信仰深い女性を用いて、ダビデを神のしもべ、そして将来の王として正しい霊的状態に保たれたのです。

ダビデは神を賛美し、アビガイルを祝福しました。後にアビガイルの言葉は成就します。翌朝、彼女がナバルに一部始終を告げると、彼は衝撃と恐怖のため倒れ、十日後に神の打ちによって死にました(38節)。ダビデはそれを信仰をもって受け止めました。(39節)

 

まとめ

1)ナバルの愚かさを避ける

聖書が語る最大の愚かさは、神を無視することです(詩篇14:1参照)。ナバルは神ではなく富を信頼しました。神の言葉を退け、ダビデを侮辱しました。

2)アビガイルの信仰に倣う

·        彼女は主を全く信頼し、その権威と主権、守りを理解していました(箴言1:7参照)。

·        彼女は謙遜で平和を作る人でした。ナバルを責めず、正しいことを行いました。

·        彼女は他人の罪を負い、彼らのために執り成しました(出エジプト記32:31–32モーセの執り成し参照)。私たちの執り成しの祈りにも、この祭司的な共感が必要です。

3)復讐は神に委ねる

第24章(サウル王の命を救う)、第25章(ナバルを征伐しようとする)、第26章(サウル王の命を再び救う)という流れは、神こそ真の裁き主であることを示しています(ローマ12:19参照)。
ダビデは状況に目を奪われ、危うく失敗しかけました。彼の中には下記のいずれかの要素が有ったと思われます。

·        安堵の中で警戒を怠った。

·        サムエルを失って不安になった。

·        自分が正しいと信じ込み、自己正当化した。

·        侮辱に怒り、心の均衡を失った。

聖書は私たちの怒りに警告を発しています。(ヨブ36:13、ヤコブ1:20参照)

私たちはどうすれば同じ過ちを避けられるでしょうか。
それは、絶えず主を信頼し、神の国と義を求め、あらゆる状況を聖書の真理によって判断することです。

礼拝音声
 

聖書箇所:ヨハネの手紙 第一 5:13–21

説教題:永遠のいのちを持つ者として歩む

序論)

ヨハネはこの手紙を締めくくるにあたり、その目的を13節で明らかにしています。彼は、イエス・キリストの御名を信じる者たち——すなわち真の信者たちに向けて書きました。彼らの中には、教会に入り込んだ偽りの教えのために、自分の救いに確信を持てなくなっていた者もいました。ヨハネは彼らに、すでに持っている永遠のいのちの確信を与えようとしています。では、永遠のいのちを確かに持つ者として、どのように生きるようにとヨハネが教えているのかを見ていきましょう。


本論)

1) 祈りととりなしにおいて確信を持って歩む(14–17節)

ヨハネの読者たちは、教会の中に入り込んだ偽教師たちの影響を受け、ある者たちは道を踏み外していました。そのような状況の中で、ヨハネはとりなしの祈りについて教えています。まず、信者は確信をもって祈るべきです。すでにキリストにあって救いと永遠のいのちを持っているからです。信仰によって義とされた者は、大胆に神に近づくことができます。とりなしの祈りは、神の御心に従って捧げられます。私たちの確信は、願いがすべて叶うかどうかにあるのではなく、神が私たちの祈りを聞いてくださるという確信にあります。

  次にヨハネは、この原則を他者への配慮に適用します。信者は、偽りの教えに惑わされて苦しんでいる兄弟姉妹や、道徳的な罪に陥っている人々のために祈るべきです。しかし彼は「死に至る罪」についても言及しています。それはキリストを故意に、意図的に拒む罪のことです。グノーシス派の教師たちは、イエスが真の神であり真の人であることを否定することでこの罪を犯していました。そのような人々のために祈ることをヨハネは勧めていませんが、これは祈ってはならないという厳格な禁止ではありません。神はなおも「すべての人が救われることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。
  ヨハネは17節で罪についての短いまとめを述べ、次の主題への移行を行っています(聖句を読んで説明)。


2) 神に属し、神に守られた者として歩む(18–20節)

キリストへの信仰にとどまらず、偽りの教えによって心を乱される危険は常にありますが、ヨハネは信者たちにキリストにある確信を持ち続けるよう励まします。これらの節では、彼は信者がすでに持っている霊的な知識を思い起こさせます。特にそれぞれの節の冒頭に「私たちは知っています(We know that)」という言葉があることに注目してください。これは、グノーシス派の偽りの「知識」と、真のキリスト者の知識とを対比しています。

18節:信者は神から生まれた者であり、罪の中にとどまりません。クリスチャンはなお罪を犯しますが(1:8–9)、告白によって赦しを受け、イエスのとりなし(2:1–2)によって回復されます。ヨハネの言う「罪を犯さない」とは、キリストを拒み続けるような罪にとどまらないという意味です。「神から生まれた方」(イエス・キリスト)が信者を守り、安全に保ってくださいます(5:4参照)。

19節:ヨハネは、信者が神から生まれた者であることを繰り返し、彼らがもはや悪い者の支配下にはないことを強調します。「神から生まれた者」という表現は、第一ヨハネ書の中で7回(3:9、5:1、5:4など)登場します。新しく生まれた者として、クリスチャンは自分のアイデンティティと所属において確信を持って生きるべきです。これに対して、キリストを否定するグノーシス派の教師たちは世に属し、その支配下にとどまっています。

20節:信者は、イエス・キリストの福音こそが神の真理の啓示であることを知っています。グノーシス派の人間的な思想とは異なり、キリストにおいて現された真理は神ご自身から来たものです。聖霊は、信者がこの真理を理解できるよう助けてくださいます。御子を知る者は御父をも知り、その交わりの中に永遠のいのちを持ちます。したがって、クリスチャンはこの関係において確信と安心をもって生きるべきです。


3) 真の神に忠実に歩むみ、偶像から自分を守る(21節)

21節は非常に短いですし、ヨハネの結びが突然のように感じられるかもしれません。「子どもたちよ」という愛に満ちた呼びかけとともに、ヨハネは重要な最後の警告を与えます。偶像とは、キリストの代わりに心の中心に置かれるもの、またはキリストと競合するすべてのものを指します。グノーシス派の偽りの教えもその一例です。信者は、偽りの希望、世の思想、あるいはキリスト以外の何かに平安やアイデンティティを求めてはなりません。

イエス・キリストにおいて啓示された唯一のまことの神に忠実であり続けることこそが、偶像を見分け、退ける鍵です。神への忠誠は心を守り、キリストのみを至高とすることを保証します。


まとめ

1️⃣ 祈りととりなしに確信を持って生きる(14–17節)
神から生まれたあなたは、確信をもって祈りなさい。罪に苦しむ兄弟姉妹や、偽りの教えに惑わされた者たちのためにとりなしましょう。神はあなたの祈りを聞いておられます。キリストを拒む者のために祈ることもできますが、故意の拒絶についてはヨハネは祈りを勧めていません。

2️⃣ 神に属し、守られた者として生きる(18–20節)
福音は私たちを世から分け、イエスは私たちを悪い者から守ってくださいます。永遠のいのちを持つという理解を確信して、信仰に堅く立ちなさい。

3️⃣ 真の神に忠実に生き、偶像から自分を守る(21節)
唯一のまことの神に忠実であり続けましょう。キリストの代わりに心の中心を占めるものを許してはいけません。それは偽りの教えであれ、世の思想であれ、平安や希望をキリスト以外に求めるあらゆるものです