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パース日本語キリスト教会は、オーストラリア長老教会西オーストラリア中会に所属するHenderson Memorial Presbyterian Churchの日本語部です。日本長老教会と協力関係に有ります。

所在地 101 Kimberley Street West Leederville 6007 WA

集会
日曜礼拝    午後1時より(第五日曜日は合同礼拝のため午前10時半より)

聖書研究会   火曜日午後1時より(現在休止中です。ブログに研究ノートを掲載します。)
プレイグループ 木曜日午前10時より(就学前のお子さんとお母さんのためのグループです。)
        プレイグループへのお問い合わせは
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*集会開催の有無、その他のお問い合わせは左サイドバーのメッセージフォームをご利用ください。

関連サイト等
Henderson Memorial Presbyterian Church
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2001年にアメリカ人宣教師Stephen Young師によって開拓されました。
Stephen Young師は2013年に帰国し、テネシー州で日本語礼拝の開拓を始めました。
Stephen Young師の現在の奉仕は、こちらと、こちらからご確認いただけます。

2015年10月森本実牧師が就任しました。
献金でご支援いただければ幸いです。
Westpac
BSB 036-048
Account Number 318 792

礼拝音声

 

聖書箇所:使徒行伝 3:1-10 

説教題:ナザレのイエス・キリストの御名によって

 

導入
前章である第2章では、イエス・キリストの弟子たちが聖霊に満たされ、イエスの良い知らせを伝えるための力と勇気を与えられました。ペテロは大胆に、イエスがメシアであることを証しし、人々に悔い改めてバプテスマを受けるよう勧めました。その結果、多くの人々がイエスを自分の救い主として信じるようになりました。この証しは第3章でも続いていきます。

 

本文
1節
ペテロとヨハネはしばしば一緒に時間を過ごし、人生の中で多くの重要な経験を共にしてきました。ユダヤ人の習慣に従い、彼らは祈るために神殿へ上って行きました。午後3時には子羊がささげられ、人々は定められた宗教的伝統に従って祈りの時を持つために集まりました。

2節
この男の障がいの原因は分かっていません。彼は生まれつき足が不自由で、自然に治る望みはありませんでした。働くことができなかったため、物乞いをすることが日々の生活を支える唯一の手段でした。毎日、誰かが彼を神殿の門まで連れて来ていたようで、おそらく公認の物乞いとして許可を得ていたのかもしれません。「美しの門」と呼ばれていたこの門は、輝く金属の表面や精巧な造りからその名がつけられた可能性があります。神殿の中庭への主要な入口であったため、多くの人が通り、物乞いにとって施しを受ける良い機会となっていました。

3節
なぜその物乞いが、周りに多くの人がいたにもかかわらず、ガリラヤ出身の漁師であるペテロとヨハネにお金を求めたのかは分かりません。おそらく、人々が彼らやペンテコステの出来事について話しており、この物乞いはこの二人に何か特別なものを感じ取ったのかもしれません。

4–5節
ペテロは権威と目的をもって「わたしたちを見なさい。」と言い、その物乞いの注意を引きました。このように声をかけられたことは、彼にとってほとんどなかったでしょう。物乞いは、ペテロとヨハネを通して何か特別なことが起ころうとしているのを感じ取ったに違いありません。

6節
しかし、物乞いが聞いた言葉は彼の期待したものではありませんでした。ペテロは彼に自分たちを見るように言いましたが、与えるお金は持っていませんでした。しかし、それこそが本当に重要なことではありませんでした。ペテロは「私にあるものをあなたにあげよう」と言いました。私たちは、自分が持っていないものを与えることはできません。ペテロとヨハネが持っていたのは、イエス・キリストの御名による力でした。

7–8節
ペテロの「歩きなさい」という命令は普通ではなく、従うのが難しかったかもしれません。しかし、ペテロは彼の右手を取って助、立ち上がらせました。ペテロが持っていたもの、すなわちイエスの御名による力は本物であり、すぐにその効力が現れました。物乞いは癒され、歩き始めました。この奇跡は、イエスがメシアであること、そして使徒たちが本当に主のしもべであり使者であることを証ししました。このようにして、イザヤ書35章6節で預言されていたメシアの力がペテロを通して示されたのです。使徒言行録4章22節によれば、この物乞いは40歳を超えていました。40年以上も歩いたことのない人を癒すことができるのは、神の力だけです。周りの誰も、それがイエス・キリストの力による癒しであることを否定できませんでした。神に癒されたこと、そしてイエス・キリストの御名の力に出会ったことを悟った彼は、神を賛美しながら神殿の庭に入っていきました。

9–10節
神殿の庭で跳びはねて神を賛美する人はめったにいないため、これはすぐに周囲の人々の注目を集めました。人々は彼のことをすぐに認識しました。彼は長年その門のところに座っており、多くの人が日常的に彼を見ていたからです。誰も彼を見間違えるはずがありませんでした。しかし今、彼は歩いていました。彼が神を賛美すると、さらに多くの人々の注意が彼に向けられました。人々は大きな驚きに満たされ、目の前の出来事に圧倒されました。著者ルカは、彼らの反応の強さを強調するために、意味の近い言葉を並べて表現しています。彼らは驚き、言葉を失うほどでした。どうしてこのようなことが起こり得るのかと考えていたのでしょう。この反応は、この奇跡が公の場で起こり、否定できないものであったことを示しています。そしてそれは、ペテロがイエスについて語り、その御名に栄光を帰すための機会を生み出しました。

 

まとめ
この出来事は、使徒たちによって行われた多くのしるしと不思議の一例です。(使徒行伝2:43参照)この箇所の中心は、6節の「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」というペテロの言葉です。

1)イエス・キリストの御名が使徒たちを通して証明された
メシアのしるしは使徒たちを通しても行われました。それによって、イエスが真のメシアであること、使徒たちが正当なメシアの使者であること、そして第2章で語られた証しが真実であることが示されました。

2)イエス・キリストの御名は命と救いをもたらす
イエス・キリストの御名は、神の子としての御方の身分と、神的権威(赦し、癒し、支配する権威)、そして贖いと救いの力を示しています。それは救いをもたらす唯一の名です。(使徒言行録4:12参照)主が昇天された後も、その権威は変わることがありません。その御名の力を体験し、それを目撃する人々は、神を賛美するようになります。

3)イエス・キリストの御名こそ、究極の「私にあるもの」
使徒たちが持っていたものは、この世のどんな富よりも価値のあるものでした。
それは
・使徒としてのしるしとして彼らに委ねられた奇跡の力(ルカ9:1–6、マルコ16:15–18参照)
・イエスの復活の証人としての任命(ルカ24:46–49参照)
・彼らと共におられるイエスと聖霊の臨在(マタイ28:20、ヨハネ16:7 参照)
です。

だからこそ、彼らは足の不自由な人を癒すことができました。

あなたは、クリスチャンとして自分が何を持っているか知っていますか。

礼拝音声

 

聖書箇所:士師記 21:1-5

説教題:王なる神を求めよ

 

導入
聖書にはなぜこんな酷い話が記録されているのだろうかと思われる箇所もありますが、その中にも神のメッセージを見いださなければなりません。本日の箇所は、前の章からの続きです。先に何が有ったか確認しておきましょう。あるレビ人の側女がベニヤミンの領地で暴行を受けた後死亡しました。そのレビ人はイスラエル全体に正義を求めました。ベニヤミン族が加害者の引き渡しを拒んだため、内戦が勃発しました。神の導きのもと、十一部族は勝利しましたが、ベニヤミン族はほぼ全滅し、天然の要害であるリンモンの岩に六百人だけが生き残りました。この出来事の後に何が起こったのかを見ていきましょう。

 

本文

1~3
正義感に駆られた十一部族は、ミツパで「娘をベニヤミン人に嫁がせない」と誓いました。しかし後に、この誓いが部族の存続を脅かすことに気づき、契約の箱が安置されていたベテルで神の前に泣きました。彼らの祈りは、彼ら自身が過度の虐殺に加担し、軽率な誓いを立てたにもかかわらず、どこか神を責めるような響きを持っていました。

4~5
翌日、彼らは全焼のささげ物と和解のいけにえのために祭壇を築きました。そして戦闘への召集の際に交わした、召集に応じなかった者は殺されるという誓いについて問いかけました(5節)。誓い自体は厳粛なものでしたが、召集に応じなかった者を処刑することは律法によって命じられておらず、彼らの行動は神のみこころを越えるものでした。

6~7
彼らはベニヤミン族を存続させたいと願いましたが、思慮のない誓いに縛られていました。

8~11
5節の誓いを手がかりに解決策を探し、召集に応じなかった町々を標的にしました。ヤベシュ・ギレアデから集会に来た者がいないことを知り、一万二千人の兵を送りました。この命令は軽率でした。ヤベシュ・ギレアデはその誓いに加わっておらず、たとえ加わっていたとしても、罰は兵役に就く資格のある者に限定されるべきでした。

12~14
ヤベシュ・ギレアデの住民から未婚の女性の服装をしていた女性四百人が取り分けられ、ベニヤミン人に与えられました。こうして指導者たちは形式的には誓いを守ったことになりますが、その論理は一貫していませんでした。もし誓いが非戦闘員にも適用されるなら、これらの女性も殺されるべきだったはずです。なお、六百人の生存者に対して四百人では足りませんでした。

15~18
ここでも再び彼らの懸念が語られます。部族の地を相続するのに十分な家族を存続させることは重要でした。

19~22
残る二百人のために妻を得るため、長老たちはシロで毎年行われる祭りを利用しました。おそらく仮庵の祭りであり、ぶどう畑の葉が茂る時期であったため、若い女性をさらうのに隠れ場所となりました。長老たちは、この方法ならベニヤミン人に娘を「正式に与える」ことを禁じた誓いを回避でき、罪には問われないと考えました。

23~24
計画どおり、残りの二百人は妻を得て自分たちの相続地に帰り、町を再建してそこに住みました。争いがようやく終結し、他のイスラエル人もそれぞれミツパから自分の部族と家に帰りました。

25
この書は、王政以前のイスラエルの道徳的・社会的混乱を強調して締めくくられます。「そのころ、イスラエルには王がなく、各人が自分の目に正しいと見ることを行っていた。」

 

まとめ

この出来事は、イスラエルが定住を始めた初期、アロンの孫ピネハスがまだ生きていた時代に起こりました(士師記20:28、ヨシュア24:31参照)。イスラエル人は神に導きを求め、いけにえをささげましたが、その行動は愚かで不正なものでした。王がいなかったことが要因として提示されていますが、果たしてそれが理由だったのでしょうか。実は、神ご自身がイスラエル人の王であると述べています。(民数記23:21、申命記33:5参照)その王が彼らの心の中にいなかった瞬間が有ったことが問題です。この物語から私たちは何を学べるでしょうか。

1)一貫して王なる神の導きを求める

イスラエル人は断続的にしか神を求めませんでした。形勢が有利になると、取るべき行動を神に尋ねませんでした。軽率な誓いを立てるとき、彼らは神の主権を無視し、自分たちの知恵に頼りました。その結果、一人の女性の死は、二万五千百人以上の兵士と数えきれない民間人の虐殺へと拡大しました。私たちクリスチャンも注意が必要です。「正義」を守っていると思っていても、自分の理解に頼り、絶えず神のみこころを求めないなら、破滅を招くことがあります。神を信じることと、継続的にみこころを求めることとは別なのです。

2)一貫して王なる神の義を求める

アダムとエバのように、私たちもしばしば善悪の判断を神ではなく自分に委ねます。ベニヤミンやヤベシュ・ギレアデの虐殺はイスラエルを義としたのではなく、彼らが自分たちの持っていた律法を無視していたことを示しました。真の義は自分の行いや理屈ではなく、イエス・キリストによって与えられます。私たちは聖書に深く親しみ、自分の基準ではなく神の基準によって生きているかを確かめなければなりません。

3)一貫して王なる神の恵みと希望を求める

聖書は、すべての人が罪を犯すと教えています(列王記第一8:46、ヨハネの手紙第一1:8)。しかし私たちには弁護者であるイエス・キリストがおられます。私たちは完全にそのあわれみに依存しています。この暗い箇所の中にも神の恵みが見られます。六百人のベニヤミン人が生き残り、再建することが許されました。この残りの者から、後にサウル王が立てられ、ベニヤミンはやがてユダと重要な同盟を結び南ユダ王国を維持します。たとえ自分たちの愚かさや不信仰の結果に苦しんでいるときでも、神がすべてを益としてくださる(ローマ8:28)ことを私たちは信頼できます。キリストの十字架による救い、そしてベニヤミン族出身のパウロの存在も、その恵みの証しです。

 

礼拝音声

聖書箇所:マタイ13章44節-46節 

説教題:隠された宝と真珠の例話

 

導入

イエス・キリストはしばしばたとえを用いて教えられました。13節で主はその理由を説明しておられます。すなわち、その教えは「聞く耳のある者」に理解されるためでした。心を開いている者にとって、たとえは神の国についてのより深い理解をもたらしました。しかし、神の国に関心のない者にとっては、それは単なる物語にすぎませんでした。私たちもキリストのたとえに目を向け、神の国についての真理を求めましょう。

本論

44節

当時、畑を所有している人は多くありませんでした。この人は畑を借りていたか、あるいは耕すために雇われていたのでしょう。なぜ宝がそこに隠されていたのか、不思議に思うかもしれません。当時、銀行を利用できたのはごく裕福な人々だけでした。一般の人々にとって、貴金属や貴重品を畑に埋めることは、財産を守る数少ない方法の一つでした。場合によっては、隠した場所を忘れてしまったり、家族に伝えないまま亡くなってしまったりすることもありました。

 

この人はそのような宝を見つけたのです。それはおそらく、その畑自体よりもはるかに価値のあるものでした。しかし彼は所有者ではなかったため、法的な権利はありませんでした。そこで彼は再びそれを慎重に隠し、自分の持ち物をすべて売り払って、そのお金で畑を買い、自分のものとしたのです。

天の御国は何にたとえられるでしょうか。

  1. 主が導かれるとき、日常生活(畑)の中で見いだされるものです。

  2. その価値に気づくとき、心は喜びで満たされます。

  3. その価値を理解するとき、それを得るためにすべてを手放す覚悟が生まれます。

45節

このたとえで商人は、真理、知恵、良い教えを求める人を表しています。彼は本当に価値あるものの価値を理解していました。イエスの時代頃のあるローマの歴史家は「すべてのものの中で最も高い価値が与えられているのは真珠である」と記しています。

46節

ヨブ記28章は、知恵はどんな宝によっても買うことができないと教えています。天の御国の福音は、この世のどんな知恵や哲学よりもはるかに偉大です。商人はその真珠の価値を認めたとき、すべてを売ってそれを手に入れました。

 

イエスがその真珠を、ご自身の尊い死の象徴として意図されたかどうかは分かりません。当時、真珠はペルシャ湾で採取されていました。潜水夫たちは約40メートルの深さまで潜り、減圧症や死の危険を冒して真珠を集めました。非常に危険な職業であったため、天然真珠は1900年代初頭まで非常に高価なままでした。

 

同じように、キリストの死と復活がなければ、福音は成り立ちません。天の御国の価値を理解するとは、イエス・キリストの血がどれほど尊いかを理解し、その復活の意味を悟ることです。

 

あなたは、イエスが神の御子であり、あなたの罪の代価を支払うために死なれ、あなたと神との和解をもたらされた方であることを知らなければなりません。また、主が旧約聖書における神の約束を成就し、三日目によみがえられたことも知らなければなりません。

 

黙示録21章21節には、新しいエルサレムには十二の門があり、それぞれが一つの真珠でできていると記されています。これはヨハネ14章6節をも思い起こさせます。イエスこそ道です。天の御国に入るためには、イエス・キリストを救い主として受け入れなければなりません。

まとめ

これら二つのたとえから、私たちは何を学べるでしょうか。

1)福音の価値を理解する必要があります。

イエス・キリストの福音がなければ、私たちは霊的に死んでいます(エペソ2:1–3)。イエスなしには希望はありません。救われる道はただ一つ、福音を受け入れ、イエス・キリストを救い主として信じることです。主は神の御子でありながら、ご自分のいのちを与え、血を流して私たちの罪から救ってくださいました。私たちには希望がありませんでしたが、イエスこそ唯一の救いの道です。ゆえに福音は計り知れない価値を持っています。その人は宝の価値を知っていたからこそ、再びそれを隠しました。あなたはどうでしょうか。

2)福音を熱心に求める必要があります。

二人の男はともに、宝と真珠を得るために持ち物をすべて売りました。マタイ22:37–38と比較してください。(朗読)ときには、神の国に近づくために意識的な努力が必要です。商人は「出かけて行きました」。それは長い旅であり、大きな努力を伴ったかもしれません。私たちにできることは何でしょうか。読むこと、祈ること、仕えることです。

3)御国のいのちを自ら生きる必要があります。

もしあなたが天の御国に属しているなら、神があなたの王であり、あなたの上に完全な権威を持っておられます。あなたの生活はその現実を反映すべきです。あなたの道を主にゆだねなさい。完全に信頼しなさい。御心を求めなさい。信仰を行動に移しなさい。44節の人のように、御国の喜びがあなたの心を支配するようにしなさい。ヘブル12:2–3は、イエスから目を離さないようにと私たちに勧めています。天の御国の喜びを、私たちの忍耐の源としましょう。

礼拝音声

聖書箇所:2 ペテロ 1:12-21
説教題:キリストの知識に留まろう

 

導入
第1章前半で、ペテロは「神の真の知識」「神の尊い約束」「神の召しと選び」について言及しました。クリスチャンである私たちは、これらの意味を理解すべきです。彼の記述は、これらの前提に基づいて展開されています。本日の箇所は三つに分けることができます。第一に、12~15節では、この手紙の目的――キリストの知識を読者に思い起こさせること――が述べられています。第二に、16~18節では、キリストの再臨が確実であることが確認されています。第三に、19~21節では、聖書が神のことばであることが宣言されています。

 

本文

1)キリストの知識にとどまり、絶えずそれを思い起こすこと
ペテロはこの箇所で「思い起こす」という意味の言葉を三度用いています(12節「思い起こさせる」、13節「記憶を呼び覚ます」、15節「思い出す」)。12節では、キリストの知識――その約束や召しを含む――が、永遠のいのちへの豊かな入場へと導くと述べています。ペテロは、地上での自分の時が限られているという切迫感を覚えながらも、私たちに常にこれを覚えているよう勧めています。14節「私はまもなくこの幕屋を脱ぎ捨てることを知っています。」15節「私の出発。」なぜ彼はそれを知っていたのでしょうか。14節はこう明らかにしています。「私たちの主イエス・キリストが私に示してくださったとおりです」(ヨハネ21:18参照)。ペテロは信仰のゆえに逮捕または裁判のもとにあったのかもしれません。彼はイエスから託された務め――「わたしの子羊を養いなさい、わたしの羊の世話をしなさい、わたしの羊を養いなさい」(ヨハネ21:15,16–17)――を忠実に果たそうとしました。彼の死後(15節)、どのようにして私たちにキリストの知識を思い起こさせることができるのでしょうか。マルコの福音書はペテロの権威のもとに書かれたと考えられており、それが15節で言及されている彼の「努力」の一部であった可能性があります。ペテロは、私たちに思い起こさせることに深く献身していました。

 

2)使徒たちによって宣べ伝えられたキリストの知識にとどまること
ここでペテロはキリストの再臨(16節)に焦点を当てています。彼は第2章で、キリストの復活や再臨を作り話だとして否定する偽教師たちを反駁し始めています(3:4)。しかしペテロは、ヤコブとヨハネと共にキリストの変貌を目撃し、主の再臨が確実であることを確認しました。ヨハネも第一ヨハネ1:1で同様のことを書いています。ユダヤの法廷では、三人の目撃証人があれば事実を立証することができました。さらにペテロは、異教の宗教儀式における高位の証人に用いられる珍しいギリシア語を用いて、自らの体験の重要性を強調しています。彼らは死が近いことを知りつつ、その証言のために命を危険にさらす覚悟がありました。彼らはキリストの威光を目撃し、その誉れと栄光を見、また「大いなる栄光」からの声(神の御声)を聞いたのです。18節でペテロは「私たち自身が」と強調し、自らの証言の信頼性を強めています。

 

3)聖霊によって示されたキリストの知識にとどまること
ペテロは19節で預言者たちに言及します。これは17節の神の声「これは…」と結びついています。学者たちは、この表現が旧約聖書の預言(詩篇2:7、イザヤ42:1、マタイ17:5、申命記18:15)を反映していると指摘しています。これらの預言はまた、キリストの再臨をも予告しています(ゼカリヤ12:10、ダニエル7:13)。聖書は目撃証言を裏づけ、確信を与えます。ペテロは、預言に目を留めることが、キリストが再び来られるまで霊的な暗闇の中で私たちを導くと保証しました(19節後半)。「明けの明星」はイエスを指します(黙示録22:16)。ペテロは、預言が預言者自身から出たのではなく、聖霊によるものであることを強調しています(21節)。この土台がなければ、聖書は信頼できるものとはなりません。

 

まとめ
この箇所から何を学ぶべきでしょうか。

1.     キリストの知識にとどまり、絶えずそれを思い起こすこと
ペテロは繰り返し「思い起こす」ことを勧めています。私たちは忘れやすく、偽りの教えが教会や私たちの心に入り込む可能性があります。キリストの教えと約束を常に思い起こし続けなければなりません。

 

2.     使徒たちによって宣べ伝えられたキリストの知識にとどまること
三人の使徒が目撃した変貌の出来事は、メシアが苦しみ、よみがえり、栄光のうちに再び来られることを確証しています。彼らは命を懸けてまで、キリストのメッセージを忠実に伝えました。

 

3.     聖霊によって示されたキリストの知識にとどまること
人は聖霊の啓示なしに神のみこころを理解することはできません。聖書66巻の統一性と正確さは、その真正性を証ししています。この知識にとどまるなら、私たちは神によって守られ、神の永遠の御国へと豊かに迎え入れられるのです。

 

礼拝音声

聖書箇所:2 ペテロ 1:1-11 

説教題:信仰の努力(勤勉)

 

導入

ペテロ第二の手紙は、第一の手紙の受取人を含む、より広い読者層に向けて書かれたものと思われます。学者たちは、ペテロが自分の死が近いことを知っていたと考えています。彼の“辞世の句”のような性格を持つこの手紙の冒頭部分で語られたメッセージに、耳を傾けましょう。

今回は、「あらゆる努力をして」と訳された語に焦点を当ててみます。この語は、「勤勉に」とも訳される語です。信仰の勤勉の土台になっている三つの要素を、朗読箇所から確認します。

 

本論

1)信仰における勤勉は、神を知る真の知識から生じる

5節から7節には、私たちが信仰に加えるべき徳のリストが示されています。5節には「あらゆる努力をして」とあります。同じ語根を持つ言葉が10節では「熱心にしなさい」と訳されています。両者は同じ語根を共有しており、「勤勉」という語感があります。8節にはその徳が豊かになるなら、イエス・キリストを「知る」点で、役に立たない者、実を結ばない者になることはないと述べられています。言い換えれば、これら七つの資質を信仰に加えることによって、私たちは主イエス・キリストを知る知識において、実り多い者とされるのです。

ここで「論理的におかしい。勤勉と知識の関係が逆ではないか」と思うかもしれません。これらの徳が、イエスを知る知識において私たちを有効に保つというなら、知識は勤勉から生じるのでしょうか。ここでペテロが用いている「知識」には、二つの側面があることに注意する必要があります。

3節では、神を知る知識が信者に敬虔な生活を与えると述べられています。これは、私たちの主イエス・キリスト、すなわち救い主の福音を知る知識を指しています。これは、敬虔な生活を送るために勤勉になるよう私たちを動かす、導入的な知識です。一方、8節におけるイエス・キリストを知る知識は、敬虔な生活の実践を通して、経験とキリストとの人格的な交わりの中で培われるものです。これは、より成熟したイエス・キリストについての知識です。この二つの段階のいずれにおいても、私たちは神とキリストを知る知識において成長すべきなのです。

 

2)信仰における勤勉は、神の尊い約束から生じる

知識の中心的な力は4節に示されています。神によって素晴らしい約束が与えられており、それは私たちを神の御性質にあずかる者にするというのです。「それは」とは、神の栄光と徳によって、という意味です。イエスは神の栄光を備えておられます。その徳(善)は、へりくだりと十字架における贖いの御業に表されています。イエスは私たちを救うために、この世に来られました。これらによって、神は私たちに尊く、また非常に大きな約束を与えてくださいました。

私たちは神とイエスを知っており、またそれらの約束が何であるかを知っています。
神は、イエス・キリストを信じ、その御名を呼び求めるとき、私たちの罪が赦されると約束されています。
神は、私たちがイエス・キリストの義を着せられ、もはや罪に定められない者となると約束されています。
神は、父が世に遣わされたイエス・キリストを信じる者に永遠のいのちを約束されています。
神は、御国における永遠の相続を約束されています。
神は、御霊による助けを約束されています。
神は、イエス・キリストの教えを守るとき、私たちが実を結ぶと約束されています。

これらの約束をしっかりと握ることの結果が、「神の性質にあずかる者となる」ということなのです。この真理と約束があるからこそ、私たちは5節から7節に挙げられている徳を、なお一層熱心に加えていくことができるのです。

 

3)信仰における勤勉は、神の召しと選びから生じる

これら七つの徳を加えることに熱心であるよう勧める中で、ペテロは神の召しについて語っています。これらの徳を追い求めるならば、信仰の歩みは確かなものになり、イエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊に加えられるから、召されたこととえらばれたことを確かなものにしなさいと勧めています。私たちは自分たちの召しが確かなものであるよう、最大限の努力を払うべきなのです。

ペテロはこの章の中で、二度、神の召しに言及しています。すでに3節で神の召しについて語っているのです。神はまず、私たちを聖なる者として召し、敬虔な生活に必要なすべてのものを、その神の力によって与えてくださいました。もし神の召しがなければ、私たちは神に従いたいと願うことも、5節から7節で命じられているように信仰に徳を加える努力をすることもなかったでしょう。

10節は、私たちの努力が召しの土台であると言っているのではありません。私たちは神の召しに応答し、徳を培うために努力するのです。そのような努力は、私たちが神の召しの内にあることを証しします。それは、自分が神の召しの中にあることを確認し、実証し、確立することであり、救いが実を結んでいることの証拠を示すことです。

この勧めが与えられているのは、9節に描かれているような状態に、私たちが陥ってほしくないからです。もしそのような努力をしなければ、神の召しに対する自覚が曇り、霊的に近視眼的になり、盲目となり、つまずいてしまうことがあるのだと、間接的に警告しているのです。むしろ、その実践を通して、召しは確かな現実として堅く確立されていくのです。

 

まとめ

ペテロは、私たちに最大限の努力を払い、勤勉であるよう勧めています。今日の箇所から、三つの原動力を見いだしました。

1)信仰における勤勉は、神を知る真の知識から生じる

神を真に知る知識は、神の特別啓示――イエス・キリストとその教え――を通してのみ得られます。それは聖書を通して私たちに伝えられています。可能なあらゆる方法で、私たちは継続的に聖書から学び続けましょう。最低でも、継続的に四つの福音書を読み続けてください。

2)信仰における勤勉は、神の尊い約束から生じる

勤勉な働きには、明確な目標が必要です。神の約束をしっかりと握っていなければ、ペテロが述べている神的な性質を育てるために努力し続けることは困難です。聖書に記されている神のすべての約束を数え、心に留めましょう。

3)信仰における勤勉は、神の召しと選びから生じる

ヨハネの第一の手紙 4章9節や19節では、神が先ず私たちを愛してくださったのだと述べられています。この愛によって、私たちは神の国へと召されました。この愛が、神を愛し、その戒めを守ろうとする動機となります。愛の戒めを守ることは、5節から7節にある七つの徳に取り組むことへと私たちを導きます。そのとき、神が私たちを召されたことは、私たちの実践によって証しされるのです。私たちはその結果を知っています。(11節参照)

 

 

礼拝音声

 

聖書箇所:ネヘミヤ 7:72b-8:12

説教題:理解したからである

 

導入
バビロン捕囚がおよそ70年間(紀元前608年頃から538年頃)続いた後、ペルシアの王キュロスは民がエルサレムに帰還することを許しました。彼らはまず神殿の再建に着手し、約20年にわたる工事の末、紀元前516年頃に完成させました。それからさらに約70年後、紀元前445年頃にエルサレムの城壁が再建されました。
3章では、女性たちも建設に加わっていたことが示され、4章では周囲の民族から受けた反対が描かれています。しかし、これらの困難にもかかわらず、城壁の完成は大きな喜びをもたらしました。神の守りへの信頼に根ざしたエズラとネヘミヤの強い指導のもとで、主に対する民の熱意は新たにされました。その結果、人々はエズラに律法を教えてほしいと願い出たのです。

 

本論

7:72b–8:1a 第七の月、すなわち今日で言う9月または10月は、イスラエル人の新年にあたりました。この月には、贖罪の日や仮庵の祭りといった重要な祭りが含まれていました。「一人の人のように」という表現は、彼らの霊的な一致を示しています。

なぜ彼らは律法の朗読を求めたのでしょうか。第一に、この月の最初の10日間は、聖別と悔い改めのために定められていたからです。第二に、自分たちの霊的な状態を吟味し、正しく悔い改めるために、律法を知りたいと願ったからです。民は、レビ記23章23〜25節で神が命じられたとおりに、この第七の月に一斉に集まりました。

3節によると、朗読は6〜7時間にも及びましたが、人々は注意深く聞き続けました。「律法の書」とは、モーセ五書全体ではなく、要点の抜き出しか申命記を指していると考えられます。

4節には、エズラが高い台の上から朗読したとあります。これは、彼の声がはっきり聞こえるようにするためでした。彼と共に立っていた人々は権威を象徴で、この出来事を公に支持していることを示すものでした。

5節では、エズラが巻物を開いたとき、人々が立ち上がったと記されています。これは神の御言葉に対する敬意の表れであり、後にユダヤ教の会堂での慣習となりました。

6節は、朗読が始まる前に、エズラが祈り、主を賛美したことを示しています。手を上げ、「アーメン、アーメン!」と応答することは、ユダヤ人の礼拝における一般的な祈りの姿勢でした。彼の祈りには、律法の書が理解できるように求める願いも含まれていた可能性があります。その後、人々はひれ伏して礼拝しました。

7節と8節によると、13人のレビ人が民を助けました。本文には「律法を読んだ」とありますが、文脈から見ると、彼らは群衆の間を回り、エズラが声に出して読んだ内容を説明し、明らかにしていたと考えられます。また、民の共通語であったアラム語にヘブライ語から翻訳し、必要に応じて解説を加えていた可能性もあります。既に人々にはへブル語がわからなくなっていたのです。このような翻訳と解釈が編纂されたものが、「タルグム」と呼ばれました。これは、いわばアラム語のスタディバイブルのようなものと言えるでしょう。私たちは自分の言葉で理解できる聖書が有ることを感謝しなければなりません。また、聖書翻訳のために努力をしている団体の仕事を尊ばなければなりません。

9節では、律法の説明を聞いた民が泣いていたことが描かれています。「嘆く」と訳されている言葉は、悲嘆し、声をあげて嘆き悲しむことを意味します。彼らの涙は、その心の反映をしていました。自分たちの生き方が神の律法と一致していないことに気づいたのです。この反応は自然なものでしたが、指導者たちは、その日は聖なる日であり、主にあって喜ぶための日であるから、泣いてはならないと諭しました。

私たちの感情は大切ですが、決して神の命令に優先してはならないのです。

10節では、ネヘミヤが民に祝うよう励ましています。私たちが何かを達成した時にを特別な食事で祝うように、彼らも上等な食べ物や甘い飲み物を楽しみ、持たない人々と分かち合うよう命じられました。新年におせち料理を食べる私たちにも共通する感覚かもしれません。「主の喜びはあなたがたの力である」という言葉は、いくつかの意味に理解できます。第一に、神の備えを喜ぶことが力を与えるということ。第二に、貧しい人を顧みるとき、神が喜ばれ、その喜びが私たちの力となるということ。第三に、喜ぶようにとの神の命令に従うこと自体が、私たちの力となるということです。

11節は、レビ人たちが繰り返し伝えたメッセージを要約しています。神がこの日を喜びのために聖別されたのだから、悲しむのではなく、従順して喜ぶべきだということです。

12節は、一致と従順を強調しています。「すべての民が大きな喜びをもって祝った」のです。その喜びは、示された言葉を理解したことから生まれました。彼らはまず、自分たちがどれほど堕落していたかを知って泣きました。そして、神の御心を理解したときに喜びました。神の御言葉を真に理解することは、真の喜びをもたらします。

 

まとめ
私たちもまた、神の御言葉を理解することから来る喜びにあずかるよう召されています。では、何をすべきでしょうか。


第一に、共に集まり、神の御言葉を求めなければなりません。この集まりは祭りの期間中に行われましたが、人々は熱意と誠実さ、そして感謝をもって臨みました。神は帰還後約90年にわたって彼らを支え、城壁の再建を可能にしてくださいました。
 

第二に、神の御言葉を正しく理解することを求めなければなりません。人々は、理解できる言葉で律法を説明できる教師であるエズラとレビ人たちのもとに集いました。理解は、直接的に喜びへとつながりました。


第三に、神の御言葉に従わなければなりません。「嘆くな、喜べ」という命令が三度も繰り返されたのは、神がこの日を聖なるものと宣言されたからです。私たちも、日曜日に集まるとき、同じ姿勢を持つべきです。どんなに心に嘆きが有っても、神の恵みを思い起こして、その戒めに従って喜ぶのです。

 

*また、神がご自分の民の中にいる女性たちの城壁工事への貢献をも尊ばれたことも、私たちは覚えておくべきです。土木工事において、女性の力は微々たるものかもしれません。私たちの教会での奉仕も小さいものかもしれません。しかし、神はそれを顧みてくださるのです。

礼拝音声は有りません

 

聖書箇所:ピリピ人への手紙 4:4–7

説教題:主にあって守られる三つの方法
 

序論
背景 ピリピの町は、アレクサンドロス大王の父であるマケドニアの王フィリポ二世にちなんで名づけられました。この町はローマの植民都市であり、そこに生まれた人々は生まれながらにローマ市民でした。また、ピリピは守備隊の置かれた都市でもあり、兵士たちが常駐して町を守っていました。そのため、ピリピの人々はローマ帝国の市民権を享受し、守備隊によって守られた平和の中で生活していました。

文脈) この箇所は、パウロの勧めの一部です。ここには「堅く立つ」(4:1)とはどういうことかが示されています。「ですから」という言葉は、3:20–21 に示された理由に結びついています。それこそが、堅く立つ理由です。

*ここでパウロは、ピリピの人々の注意を天の市民権と霊的な守りと保護へと向けています。

この箇所には、「堅く立つ」ための三つの道が示されています。それらを確認していきましょう。これらは三つの命令形として与えられています。すなわち、命令と指示です。

 

本文

1) 主にあって喜びなさい(4節)
これは 3:1 の繰り返しです。この命令は、イエス・キリストとその栄光にお会いする希望と結びついています。
**「主にあって」**とは、偽教師たちのように自分の力や知識に頼ることではありません。人生の困難、迫害、偽教師の中にあっても主を信頼することです。
喜ぶ理由:ローマ 8:28、Ⅰペテロ 1:6参照
→ 主は私たちの罪の代価を支払ってくださり、それを永遠に捨て去ることを可能にしてくださったから。
→ 私たちが天に行くとき、主は喜んでご自身の栄光を示してくださるから。
実際の実践: 意識的に、意図的にこれを思い巡らすことです。すなわち、イエスによる義です。4:8 参照。「考えなさい」。この語は 数える、理由づけるという意味が有ります。自分の思索の中でその理由を繰り返し確認するのです。

 

2) 寛容と柔和さを示しなさい
「寛容」 律法や慣習のすべての権利を主張しないこと。譲る心、柔和、親切、礼儀正しさ(敬意と配慮)、寛容さ。柔和な人とは、他者への配慮のために自分の権利を進んで犠牲にできる人であり、「愛せよ」という命令に従う人です。
直訳:「あなたがたの柔和な心を、すべての人に知られるようにしなさい。」
これは新約ギリシャ語における三人称命令であり、許可ではなく義務を表します。あなたがたの寛容は、すべての人に示されなければなりません。
実際の実践: 上記と同じですが、さらに理由があります。
理由: 主が近いからです。(5節。8節も再び念頭にあります。)

1.     キリストの再臨が近い。その希望をもって行いなさい。

2.     神は私たちと共におられる。その信頼と力に拠って行いなさい。

 

3) 願い事を神に申し上げなさい:中心的な力!
直訳:「あなたがたの願いを、神に知られるようにしなさい。」(5節参照)それは「しなければならない」という義務的意味合いが有ります。
これが働くためには、三つの条件があります。

1.     何事も思い煩わないこと。思い煩いは問題を解決しません。それは神を信頼していないことを意味します。無駄な時間を過ごしてはいけません。

2.     すべてのことについて。「何事も」と対応し、どんな小さなことでも含まれます。

3.     感謝をもって。これは神への信仰と礼拝の行為です。Ⅰテモテ 2:1–2 参照。
中心的な力: それは神との直接的な交わりだからです。
実際の実践: 9節参照。実行に移しなさい。ただ行うのです。
思い煩いや不安は何度も心に入り込むので、習慣的にそれを退けなさい。Ⅰペテロ 5:7、Ⅰテサロニケ 5:16–18、特に 17節「絶えず祈りなさい」。
ですから、あなたは神に願いを申し上げなければなりません。祈りと願いをもって。

 

それらを実践すると、何が起こるのでしょうか。
命令・指示 に続いて「そして」という接続詞でその結果が示されています。
7節:神の平安が、あなたがたの心と思いを守ります。
→ あなたがたの理性的思考と感情的反応は、すべての理解を超えた神の平安のうちに保たれます。
「守る」は軍事用語であり、ピリピの町がローマの守備隊によって守られていた事実を思い起こさせます。
私たちの守りは「キリスト・イエスにあって」与えられています。それは主の保護と備えです。山上の説教を参照してください。
「知る」 聖書における「知る」という概念は、経験によって知ることを意味します。
聖書の例:エサウと会う前のヤコブ(創世記 32:24–29)祈りの中で、神を経験する者とならなければなりません。

 

まとめ
私たちがイエス・キリストを受け入れるとき、救いとともに、キリストにあって堅く立つための三つの道も与えられています。あとは、それを実践するだけです。無駄に持ち歩いてはいけません。堅く立つ三つの道を「知っている」ことと、「実践している」ことは別なのです。主にあって喜びなさい

1.     寛容と柔和さを示しなさい

2.     願い事を神に申し上げなさい
これらを、継続して実践していきましょう。

礼拝音声はありません

 

聖書箇所:ルカ 18:18-25

説教題:らくだが針の穴を通る方がやさしい

 

導入
表題の表現を元にした絵を見たことがあります。滑稽な絵でしたが、実際にはどういう意味なのでしょうか。内容を追って確認してみましょう。

 

本論

18節 役人、あるいは指導者と訳される語は、統治者という意味もあります。おそらくユダ人の議会の議員だったのではないかと思われます。この人の場合は、その発言からパリサイ人であったのではないかと思われます。謙遜な人であったと考えられます。キリストはユダヤ人の指導者達から敵視されていたから、指導的立場に居る人がキリストの元に出向くことは、プライドが許さないことであったはずだからです。しかも、キリストに「尊い先生」と呼びかけています。 尊いと訳された語は「良い、素晴らしい」という意味があります。 この指導者はキリストを高く評価していたことになります。彼の質問は、どうしたら永遠の命を自分のものとして受けられるかということでした。パリサイ人達は、自分達こそ神の国の到来の時にはその祝宴で上席に着くに決まっている者達だと思っていましたから、このような質問をするということは、それ以上の真剣さと誠意の有る霊的な探究心が有ったのだと思われます。他の福音書では、彼が若いということと、キリストが彼を慈しまれたということが書いて有るので、キリストを罠にかけようとする邪心の有る人物ではなかった言えます。

19節 キリストはこの「良い」という表現に対して、議論をふきかけるように、「なぜわたしを尊いと呼ぶのか、尊いのは神お一人のほかにはだれもありません。」と答えます。二つの意図が有ったと思われます。一つ目は、「わたしは単なる良い先生ではないのだ。」ということです。それは、人間的な良さに信頼を寄せてはいけないという警告でも有ったでしょう。二つ目は、尊いのは神だけであるということによって、わたしは神であるということを示そうとしたと考えられます。

20節 彼の質問は、何をしたら良いかという行動原則を尋ねるものでした。キリストが示したのは、十戒の条文でした。十戒の最初の四戒は神との関係を扱っています。キリストは第五戒以降を示しました。神との関係についての戒めを守っているのは当然ということだったのでしょう。21節)この指導者は、そのようなことは小さい時から守っていると答えます。小さい時というのは、「若い」という意味の語です。ユダヤ人の伝統では、十三歳から律法を守ることに責任が有ると考えられました。すると、彼が小さい時からと言ったのは、その時点からかもしれません。この指導者はそういうことを即座に言えるぐらい、正しい生き方に一生懸命であったのです。

22節-23節 キリストは、まだ彼に欠けているところが有ると言いました。それは、持ち物を全部売って、貧しいものに施すことと、キリストの弟子になるということでした。ここでキリストが示している原則は何でしょうか。 第一に、行いによって永遠の命を受け継ぐことはできないということです。彼は律法を守ってきたと思っていました。それでもキリストは、欠けていると

ころがあると指摘しているのです。律法を守りきることは難しいことです。しかし、律法は全部守ってこそ救われるという部分が有ります。彼は、「むさぼってはならない」という部分を守りきれていなかったと言えるかもしれません。他人の所有物をむさぼったりはしなかったでしょう。しかし、自分の持ち物に固執していました。対象が他人の物から自分の物に変わっただけで、その精神は同じ罪だったということです。キリストはそれを見抜いていました。実際に施しをするかよりも、そういう罪の態度を捨てることができるかが大事だったのです。第二に、永遠の命を受け継ぐには天国の基準に従い、キリストに従わなければならないということです。だから、天に宝を積むことと、リストに従うが一緒に述べられているのです。23節は、この人物の優先順位を示しています。キリストの方法で永遠の命を得ることに、抵抗があったことになります。

24節 キリストは、金持ちが神の国に入ることは難しいと言いました。金持ちにとっては、自分が頼りにしている力の源であるお金を手放すのは恐いことでしょう。しかし、それが神の国、永遠の命を得るのに妨げになることが多いのです。

25節 「金持ちが神の国に入る方が、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」というキリストの言葉は、何を意味しているのでしょうか。この表現は、ユダヤ的表現でした。パレスチナで大きいものというと、山の他にはラクダのイメージが有りました。また、小さいもののイメージとしては、からし種の他には、糸を通す針の穴が生活の中ですぐ思い浮かぶものでした。すると、これは、一番大きいものと一番小さいものを比較して、困難なことや不可能なことを誇張して表現する決り文句であったと考えられます。ここでキリストが確認していることは、金持ちは神の国に入れないということではありません。これは、先にキリストがその人への回答で示した霊的原則を当てはめて考えなければなりません。お金の力、高い地位、律法を守るという厳しい自律であろうと、人間の努力や業が人を永遠の命に入れることはできません。この世の力や人間の力に固執するなら、決して神の国には入れません。

26節 人々は、キリストの意図をきちんと理解していませんでした。それでは誰が救われるでしょうかという疑問を示しています。

27節 ここでキリストは結論を述べます。人にはできないことが、神にはできるということです。人が自力で神の国に入り、永遠の命を得ることはできません。ただ、神によってのみ人は神の国に入り、永遠の命を得ることができるのです。この指導者が金持ちであったかどうかは、実際には関係無かったのです。この指導者は、自分の力と行動で永遠の命を手に入れようとしていました。しかし、人の力では神の国に入ることはできないのです。それなのに、彼は、自分の力の一つである財力を手放すことができなませんでした。自分が「尊い先生」と呼んだキリストが、天に宝を積む人生である私について来なさいと言ったのに、自分が求めていたはずの永遠の命よりも、この世の力に固執していたのです。だから、彼が神の国に入ることは難しい、もしくは、不可能だったのです。彼が神の国に入り、永遠の命を得るためには、方向転換が必要だったのです。それは、人間の力を捨て、神の方法によって生きること、別な言い方をすれば悔い改めて、神にすがることでした。

 

まとめ

「らくだが針の穴を通る方がやさしい」というキリストの言葉は、神の国の原則を理解させるための言葉でした。この箇所を通して私たちが心に留めるべき原則を取り出してみましょう。

 

1)自分の弱さを認めること。

  人間は善行を成し遂げることはできないし、自分の力で神の国に入ることはできない。

2)神の方法で救いを得る、神の国に入るという思考の方向転換をすること。

  悔い改め、イエスの教えに従う。

3)神の国、永遠の命は、神によってのみはいることができる。

礼拝音声はありません。

 

序論

本日の聖書箇所には、シメオンという一人の老人が登場します。今回は、特に二十九節の言葉に目を留めて考えてみます。シメオンはそこで、次のように告白しています。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」シメオンはすでに高齢であり、人生の終わりが近いことを自覚していた人物でした。その彼が、「安らかに」この世を去ることができると告白したのは、いったいなぜだったのでしょうか。ご一緒に確認してみましょう。

 

本論

聖書には、彼が「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」と記されています。これは、メシアが現れ、イスラエルが解放されることを待ち望んでいた、という意味を持つ表現です。しかし、その期待自体は、当時の多くの人々が共有していたものでした。では、シメオンは他の人々と何が違っていたのでしょうか。                                                                                                          

  実は、彼には特別な啓示が与えられていました。彼の上には聖霊がとどまっていた、と聖書は語ります。聖霊は預言と深く関わりますが、そのように聖霊が明確にとどまっている人物は決して多くはありませんでした。しかも、約四百年もの間、大きな働きをする預言者が現れていなかった時代です。そう考えると、シメオンは特別な存在であったと言えるでしょう。                            

  その啓示の内容とは、「彼がメシアを見るまでは死なない」というものでした。言い換えれば、メシアの到来が近い、という約束でもあったのです。そしてある日、聖霊はシメオンを神殿へと導きました。そこで彼は、幼子イエスを抱いて入って来たヨセフとマリアを見ます。その瞬間、彼はその幼子こそが、待ち望んでいたメシアであると悟ったのです。                                                

  そこで、先ほどの告白がなされ、さらに彼は、その理由を自らの口で語ります。彼が安らかに、思い残すことなく死ぬことができると言ったのは、約束のメシアをこの目で見、腕に抱いたからでした。イスラエルの完全な解放を自分の目で見ることはないと分かっていたでしょう。しかし、メシアの到来を目撃した以上、その救いを見たのも同然であり、「御救いを見た」と告白したのです。                                                                                                                                                                                  

  ここで、私たち自身に問いが向けられます。安らかに去ることができる、思い残すことなく死ねる、と言える人は、どれほどいるでしょうか。あれもやっておきたかった、これも完成させてから死にたかった。人生の途中で終わることを思うと、心残りばかりが浮かぶのが、私たちの正直な姿ではないでしょうか。自分の人生のプロジェクト、子どもの成長、完成を見届けたい願い——それらを考えれば、今死ぬのはつらい、と思うのが自然です。                                                                       

  では、私たちはどうすれば、シメオンのように「主よ、あなたは、あなたのしもべを安らかに去らせてくださいます」と告白できるのでしょうか。また、この言葉がルカによって記録されたことには、どのような意味があるのでしょうか。                             

  三十一節を見ると、「御救いは万民の前に備えられた」と宣言され、さらに三十二節では「異邦人」という言葉が用いられています。シメオンが見た御救いは、彼一人のものでも、当時のイスラエルだけのものでもありません。時代と民族を超えて、私たちにも備えられている救いなのです。その救いを見た、と告白できるとき、私たちもまた、シメオンと同じ告白に生きることができます。                                                                                                                                                                      

  人生をきっちりやり遂げ、完成させて、心おきなくこの世を去れる人が、果たしてどれほどいるでしょうか。完全な人生、完璧な人生を送ったと言える人は、ほとんどいないのではないでしょうか。むしろ、そのような人生を目指すこと自体が、人間には不可能なのかもしれません。パウロが繰り返し語ったように、私たちの完全は、ただキリストの中にのみあります。その救いを見たと告白できるなら、私たちは未練に縛られず、安らかに去ることができるのです。                    

  もう一つ、大切な点を確認したいと思います。シメオンの告白によれば、私たちを安らかに去らせてくださるのは「主」です。私たちは与えられた人生を懸命に生きますが、それを完成させることも、安らかさを自分で得ることもできません。主だけが、私たちの人生に御救いをもたらし、それを見させてくださるお方なのです。                                                                                                

  このシメオンの出来事は、ルカ福音書の二章という早い段階に記されていますが、そこには人生と信仰の本質が凝縮されています。安らかに死を迎えられるのかという問いは、時代を超えた普遍的な問いです。多くの思想や教えが存在しますが、その問いに真正面から答えられるものは、決して多くありません。しかし、この箇所は驚くほど簡潔に、「キリストに出会うこと」こそが、安らかに死を迎える理由なのだと語っています。                                                                                

  「御救いを見た」と訳されている言葉には、「調べた、知った、理解した、対話した、訪れた」といった意味も含まれています。シメオンは、聖霊の啓示によってキリストを知り、理解し、そして実際に出会いました。その出会いが、思い残すことなく人生を終えられるほど確かなものであった、ということです。同じ聖霊によって霊感された聖書を私たちが読み、キリストを知り、その心に出会い、対話する関係が築かれるなら、私たちもまた、死を思うときに同じ平安を持つ者とされたいのです。                                                                                                                                   

  私自身、この箇所をこのように読んだことはありませんでした。私は目標や完成を大切にし、人生で何かを成し遂げたいと考えがちです。そのため、人生が思いのほか早く終わったらどうしよう、という不安がよぎることもあります。しかし、その平安は私の努力とは無関係に、ただ主から与えられるものだと、改めて示されました。                                                                                       

   私たちは努力して生きますが、人生の完成は私たちの手の中にはありません。「キリストなしには、私たちは何者でもない」という告白は、人生の終わりにおいても当てはまります。何かを成し遂げなくても、未完成でも、失望や未練に縛られる必要はないのです。                                        

  パウロの「走るべき行程を走り終えた」という言葉も、計画の達成ではなく、信仰を守り通したことに重心があります。キリストに出会い、キリストと一つにされたことに安んじつつ、「主与え、主取り給う。主の御名はほむべきかな」というヨブの告白と、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」というシメオンの告白が、私たちにも同じ平安をもたらすことを願います。

 

まとめ

シメオンの「主は安らかに去らせてくださいます。」という告白から私たちが心に留めるべきとは何でしょうか。

 

第一に、シメオンが安らかに死を迎えられると告白できたのは、人生の完成や達成を見たからではなく、約束のメシアであるキリストに出会い、御救いを見たからでした。

第二に、その御救いはシメオン一人のものではなく、万民のため、異邦人である私たちのためにも備えられている救いであり、私たちもまた「御救いを見た」と告白するよう招かれています。

第三に、私たちを安らかに去らせてくださるのは自分自身ではなく主ご自身であり、人生の完成も平安も、ただキリストの中にのみ与えられるということです。

 

この救いに目を留めつつ、私たちもシメオンの告白に生きる者とされたいと願います。