植木先生の本を読んで、自然と自分が繰り返しやってる自虐行為は悪いものじゃないと思った。とことんそれについて考えて悶々としたり、後悔したり、塩を塗ったり、楽天的ではないのだから、誰かの真似をせず、躓き、立ち上がる、手をついてしまっても捻っても痛みがあるから忘れない。

向き合う逃げないは他人に向けたものではなく、自分に向けたものです。強く弱いあたしから逃げれない。ただ、僅かながら全てをなげうっても、悪人扱いされても盾になりたいと思う存在がある。普段は楽しいばかりではいられないけど、相手があたしを忘れてしまってもあたしが忘れてなければ下の世話をして看取りたい。最終着地は自分より誰かのなにかになれていたらいい。他人の安らかな表情でご飯が進むのだ。ただ、他人にそれを求めたいのに求めるのがおこがましいような諦めた気持ちになる。してもらえる人になったら、してもらえない人に暴落した時に立て直すのにどんくらい労力と時間を費やすのか。

それを今はラーメン然り食欲で満たす。

美醜問題も絡んでくるが、くたびれた女にはなってはいけないと言い聞かせる。憂いのある女ならよいが、比較的、あたしの親しい友達は美しい友達が男女共に多いように思える。美しい人は卑屈ではない。どちらかといえばマイペースである。

明日からくる新人さんがエライ別嬪でびっくりした。知り合いもいないのに内地からこっちに来た女の子。明日は休みだけども今日は書類に追われ、先週は一日十万、土日一人で四十万程伸ばした。仕事が楽しい。アロマやカフェとかほざいてそうな店の雰囲気ぶっ飛ばして、やいのやいの目の前のお客様を楽しませるのが楽しい。笑い過ぎて腹痛いと言われると嬉しいしよい疲れが好き。

今日はびっくりしたけど、友達っていいなと思った。びっくりしたの連呼。今日はお互いが知り合った会社が閉鎖した日だった。

あの時も傷口に塩やら七味を振り掛けて舐め倒したのだ。優しく抱きしめて陳腐な台詞を棒読みするくらいなら、骨の砕ける音と圧力がよい。

あたしの目線はS

痛いの解らないと苦痛と悶絶の境目が解らない