国語の問題集は、断片的だけどいろんな文章が読めて、これはこれでなかなか面白い。
娘は中学生の頃、読書代わりに国語の問題集を読んでいた。
別に問題を解く必要はない。
(設問自体が何だかなあって思うのがあるから)
短編集か何かだと思って楽しめばよい。
私はいつだったか、入試問題の国語の小説を読んで、不覚にも泣けてしまったことがある。出典もどんな話だったかも忘れてしまっているけれども。
それほどに、国語のテスト問題の文章はなかなか捨てがたく面白い。
何年か前になるほどと思った文章に、最近また出合ったので、書いてみようと思う。
【雑草と考え方の多様性】
庭や畑に生えてくる雑草を、私たちは邪魔者だとして、刈ったり抜いたりしている。
果ては除草剤を撒いたりもしている。
だけど、もし砂漠に住んでいたとしたら、どんな草であれたくさん生えてほしいと思うだろう。
雑草が次々と生えてくるというのは、高い植物生産力があるということ。
そして、そこには多くの生命活動を支える水があるということ。
そんなふうに思うと、生い茂る雑草に感謝の念を持つようになる。
ドイツでプランクトンの研究会に出席者したときのこと。
ミジンコ研究者の家に招かれて自宅を訪れた時に、その研究者が、自宅の庭を自慢げに見せてくれた。
ところが、その庭は雑草だらけだった。
筆者は一瞬言葉を失った。
しかし、ドイツ人と日本人の自然に対する考え方の違いを知り、日本人が偏見の目で植物を見ていることに気付かされた。
草の生えていない庭、魚の泳ぐ池。
日本人にはそのような固定観念があり、それが考え方の多様性を失わせている。
私たち、いや、少なくとも私は草の生えていない畑や庭を美しいと思っていた。
それは子どもの頃から聞かされてきた言葉により作られた価値観なのだと気付いた。
「どこそこの畑は草1本も生えてなくて、よく手入れがされている」
「あそこの庭は草ぼうぼうで見苦しい」
果ては「誰それさんは(草取りに精を出して)働き者や」「誰それさんは(草取りもせず)しみったれや」との人格判断にまで発展してしまうような言葉も聞いてきた。
草取りが出来ていない家はみっともない。
私がしみったれと思われる。
そんなふうに思われたくないと、家の庭の雑草を可能な限り抜くよう頑張っていた。
けれども、悲しいかな、私は力もなくてキレイには保てない。
その分を父母がせっせと草取りや庭木の手入れをしてくれていた。
その父母が亡くなってしまうと夫の仕事になったが、なかなかいつもキレイにしておくことは出来ず、段々と玄関前の草さえ生え放題になってしまった。
忙しさもあってできないし、年が上がるにつれて図々しくなって世間の目も前ほど気にならなくなってきたことを幸いに、伸び放題になってしまった雑草たち。
が、しかし!
この国語の文章を読んだ時に、
自然のままにしておくことも価値ある事なのだ!とかなり心が軽くなった。
世間体とか考えるのも止めようと思った。
野菜作りでは、草を抜かずに共存させるというような?農法もあると言う。
何がなんでも草を取ることが必要ではないらしい。
そう思っていろんなことを見てみると、当たり前だと思っていたことが、実は誰かに作られた価値観なのだと分かってきた。
多様性を大切に!
とはいろんなところで聞くけれど、その中身をもっときちんと知りたいと思うようになった。
問題文の出典はこちら。
取り寄せて読みはじめた。
難しいけど、雑草の他に興味深い内容が詰まっている。