Vol.67 「クレーム処理の天才(1)」 | ノムラ證券残酷物語

Vol.67 「クレーム処理の天才(1)」

先週半ばから、シンガポールに出張しておりました。サボっていた訳ではないのです。

シンガポールは、初めてだったのですが、とても印象的な国でした。3月だというのに35度もあり、東南アジアだと思っていたら、先進的なビル群の中の街でした。でも、「タバコのポイ捨て」や「ガムのポイ捨て」禁止で、とてもきれいな街だと思っていったのですが、意外にそうでもなかったかな?と。この話は、また今度気が向いたら…では、以下に続きを…


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支店に配属されて1年位たった頃に次長が転勤して新しい次長に交代した。当時虎の穴ではY田課長の全盛期で、次長は営業課5課の上に君臨する支店長の代理役として絶対的な権限を持っているはずだったが、あまり私の印象としては次長は存在感の無い善良な方だった気がする。確か最初の次長は高卒で叩き上げの人で、人間的にもまともな人だった気がする。


筆者の入社した頃はまだノムラでも昔の株屋時代の余韻か、何人か高卒の人もまだ存在した。まともな大卒なんかまだ「株屋」には入社しない時代が長く続いたせいだろうか、また場立ちといって取引所で体を張って注文を執行する役割の人間は70年代の後半まではほとんど高卒の方で占められていた。高度経済成長も安定期に入った80年代からはさすがにノムラでは大卒しか採用しなくなったが、その頃でも準大手証券クラス以下はまだ大卒と平行して高卒も採用していたから、バブル期を挟んでは隔世の感があるのかもしれない。


D証券などは、バブル期にオリンピック選手のバスケットボールの選手を雇用していて、市場部という場立ち要員として体を張って注文を出していた。とにかく商いが集中すると混雑して誰が何を言っているのか分からないことが多いから、体の大きな奴や声のでかい奴などが市場で目立ち有利になる事は間違いないというただそれだけの理由だったのだろうか、いずれにせよノムラでも寮にはまだ市場部の先輩などで高卒の方も何人かいた。


今にして思うと高卒の方は概して大人しく、人間的にもまともな人が多かった気がする。出世という点では限界があったし、市場部勤務の後に営業に配属されたとしても、無理をせずに淡々と仕事をこなしている方も沢山いたが、営業と言っても、我々と同じ営業課ではなく、ほとんどが投資相談課などのいわゆる「女子供相手」の店頭担当であり、ノルマの大きさやプレッシャーは営業課の比では無い。