「含笑入地(がんしょうにゅうち)」という言葉があります。何も思い残すことなく安らかに死んでいく事を言います。将に、理想ですね。後悔なく生きる事は本当に大切だと思います。(同じ人生は)一度しかない人生を後悔の無いように生きたいものですね。ところで、私達は生涯でどれくらいの人と出会うのでしょうか。人生で何らかの接点を持つ人は約3万人だそうです。凄い数ですね。そのうち、学校や仕事を通じて近い関係になる人は約3千人と言われています。親しい会話ができる人は、約300人、友達と呼べる人は約30人という事です。私は後期高齢者で、余命いくばくもありませんが、3万人位の人にあったのかあまり実感はありません。もっと少ないような感じがしています。親しく会話ができる(できた)人や友達も、もっと少ない感じがしています。基本的には、私達は波動が同じ人が引き寄せ合い「縁」が出来ます。付き合いを維持している人の数は、年賀状を考えればだいたいわかると思います。私の場合は、多い時で150枚くらいでした。今は、その半分くらいになっています。その中には、なにげなく義理で付き合っている人も少しいます。心を許せる人、尊敬できる人を友達とすれば、私の場合は非常に少ないと言えます。その理由は「私は高野山で結縁灌頂を受け、お大師様の弟子となっている事」と「仏様に指示された人類の危機に関するプロジェクトを進めている事」にあります。仏様の弟子になれば「何事においても白黒がはっきりする」ようになります。友達もしかりで、自分に合わない・尊敬出来ないような友達は、付き合いをしないようになります。仏様の仕事をしている事は、周りの人達には全く話さないようにしています。話しても、理解して頂けないからです。兎に角、人類を救うために仏様のご支援を頂きながら、淡々と進めていますが、残された少ない余生でどうなるかが楽しみです。

 

 

⑥「葬儀や供養ごとなどの意義を理解する事と丁寧な説明」について

⑦「お寺は公共のものという認識を持つ事と世襲制の問題点を正す事」について

 

仏教の衰退の原因として「寺院や僧侶に対する必要性や信頼性の希薄化が進んできている為」と申し上げました。僧侶は、葬儀や供養ごとなどの意義を理解し、それを依頼人に丁寧に分かり易い言葉で説明する事が必要です。仏教には、先祖供養や年忌供養などに関する教えはないのかもしれませんが、先祖供養には5~6つの大変大事な意義があります。それは、「先祖供養は、私達(子孫)とご先祖に恩恵をもたらす」という事なのです。「先祖供養を行う事は、子孫の義務」ですので、先祖供養の意義を理解し、先祖供養を普及させ、檀家の方々をいい方向に導いてやる事は、僧侶の方々の大変重要な任務です。

 

 

葬儀や49日や年忌供養の法要もしかりです。例えば、葬儀で行っている供養ごとの意味と必要性を、本当に分かっている僧侶はあまり多くないと思います。葬儀で大事な事は「死者に、肉体がなくなり霊となり生きていることを分からせ、49日が過ぎたらあの世に行き仏様のお導きに従いこの世と同様に魂を磨く修行をしなければいけない事を伝え、あの世でどんな生き方をしたらいいかをアドバイスする事」で、その為には、死者のこの世の大まかな生涯と性格や信仰心などを知る必要があります。あの世でも、「魂を磨く為のアドバイスをしてあげる事」が大事なのです。

 

 

年忌法要も故人にとっては、大変重要な供養です。その意義を知り、檀家の方々にお伝えし、年忌供養を普及させ、故人をより高いお浄土に導いてやる事も大事な任務といえます。49日法要の意義と必要性の説明もしかりです。

 

 

お寺やお寺の様々な仏具などは、お寺自身でお金を稼ぎ作っている・購入しているのではなく、殆どの場合が「檀家や関係企業などからの寄進」で作られていますが、殆どのお寺は「我が家の寺」という認識を持っています。ですので、参拝者に対する感謝の念はなく、お参りさせてやっているという感じがします。

 

 

四国88ケ所を参拝しても、参拝者に対する心配りが出来ているお寺は殆どありません。吹きさらしのローソク立てがあったり、手水舎が汚かったり、納経帳を書いてやっているといった態度といったお寺が多くあります。多くのお寺が世襲制と言えます。私はこれまで9回、四国88ケ所を参拝していますが、私が知っている限りでは、参拝者に対する心配りが出来ているお寺は殆どありません。

 

 

世襲制には様々な弊害があります。我が家の物という意識による弊害、僧侶になればお寺を継げるので僧侶としての能力が低い事、檀家などのお寺を運営していく条件が整っているので胡坐(あぐら)をかいている僧侶が多い事、お寺をより立派なお寺にしていくという気持ちがない事、などです。世襲制でもいいですが、お寺は公共の施設という意識を持ち、僧侶としての能力を高め、壇家や参拝者や地元の人達の為になることを考え・行うといったお寺(僧侶)であってほしいと思います。

 

 

その他として、仏教界はあまりにも閉鎖的で、本来の道から外れています。全ての宗派や個々のお寺は、自分達だけの主張や、自分のお寺を守る事、金儲けなどに固執しており、地位にも執着しています。その反面、僧侶の道を究める・能力を高める姿勢に欠けています。また、お釈迦様の言った事だけ(仏教の教え)に固執しており、心ある人達がお墓や供養などの意義やあの世の事(仏教の教えにない事)を知る事の大切さを唱えても、多くの僧侶は全く聞く耳を持っていません。仏教で大事な事は、「多聞」と言われています。即ち、正しい教えを多く聞き、それを心に留める事です。色々な人の意見に耳を傾け、正しい事を取り入れる柔軟な姿勢が必要です。