数年前から住んでいる年季の入ったアパートはとても居心地がよくて、安らげる場所なのに、外から帰ってきてドアを開けた瞬間、部屋に漂っている空気が長年蓄積された何とも言えない匂いをはらんでいて嫌いだし、
部屋から一歩外に出てみると、その匂いが洗濯したての服からもふわりと漂ってきてうんざりする。
もしかしたら、私の体にも染みついているかもしれないと思うと落ち着かない。
私にとって居心地のいいこの部屋は、外気に触れたとたん魔法が溶けたみたいに匂いだけが浮き立ってきて私を悩ませる。
抗ってお香を焚いたり、消臭剤を置いてみたりするけれど、それは一時的なごまかしにすぎなくて。
でも、部屋に入って少し経つと、知らぬ間にまた魔法にかかったみたいに鼻が鈍化して落ち着く場所に戻るから。
だから私はここから離れられないでいる。


「劇場」
「まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。」
冒頭のこの一文が最後まで頭に残った。

薄い皮膚でしかないまぶたは、優しく重く世界を遮断する。
目を開けてまばたきをするたびに、目の前の風景は残像となり、私は今を生きているのか過去を追いかけているのかわからなくなる。

読みながらふいに、むかし夕日を見て「もう暗くなるよ、なんか切ないね。」って言った私に「夜ご飯なに食べようかってわくわくする。」って言ったひとの匂いが鼻をかすめて、あったかい心がちょっとだけうずいた。

人との出会いも別れもその途中も、そのすべてが、自分では見ることができない今の私を形づくっていることに改めて気づいた。