秋晴れの祝日に、父と母と車で1時間ほど離れた森林公園に行った。ようやく秋の匂いが立ち始めた遊歩道は歩いていてとても気持ちがよかった。

歩き始めて少ししたとき、母が何気なく「普段その辺に生えてるすすきは何とも思わないけど、こういうところのすすきは風情があって、とてもきれいね。」と言った。

私は普段その辺に生えてるすすきを思い浮かべた。

道路脇でいつ生えたのだろうすすきが車道に向かって首を伸ばし、車が通りすぎるたび強風に煽られ穂を揺らしている。

立ち止まり、それに魅いる人も幾らかはいるかもしれない。
しかしたいていは気にも止めず、そのうち刈り取られてしまうだろう。

ふと、
すすきの種は何処から飛んで着たのだろう。
コンクリートのほんの隙間の、砂の堆積に運良く降り立ち、そこにとどまり芽を出す確率はどれほどだろう
という問いが浮かぶ。

よくわからないけど、なんだか途方もないことのように思われる。

偶然の偶然の偶然の重なり、重なり、重なり

ひとつのいのちが生まれることの奇妙で奇跡的な感覚が私の中でめぐる。

車道に向い迷いなく伸びるそれは、根源的ないのちの叫びのようでもあり、生きることそのもののようにも思える。

人はしばし、それを直視することに怯え、それを刈り取ることで安堵するのだろうか。

ああ、妄想がまたあらぬ方へ行ってしまった。



「何もかも憂鬱な夜に」

いのちの延長線上の私。その重みと深さにしばしばのしかかる憂鬱。それを抱えて、それでも足の着く意味を踏みしめながら私は生きてゆきたいと思った。