旧統一教会の問題を受けて、宗教法人について調べる機会が増えた。

歴史が浅いと言われる北海道であるが、世間にはあまり知られていないものの、実に興味深い遍歴を持つ宗教法人が数多く存在することがわかってきた。

聞いたことのない宗教ばかりかもしれないが、北海道の歴史の一端が垣間見える側面もあるので、ニッチな読者に向けて、ひとつずつご紹介していきたい。

 

ことしろ舎北海道本部

認証年月日:昭和32年8月30日

事務所:虻田郡豊浦町字新山梨308

代表役員:相川静

目的:

 この法人は、天照皇大神・天光之命を主宰神(御祭神)と仰ぎ、その御神意のままに教義を広め、儀式行事を行い、信仰者を教化育成して惟神の道を歩む心を培い、その他「ことしろ舎北海道本部」の目的を達成するために必要な業務及び事業を行なう。


今回取り上げるのはこちらの神道系単立宗教法人。

2022年7月までは神霊教院、さらにその前は相川神霊教院という法人名だった。

胆振の豊浦町に事務所を置き、『豊浦町史』と『新・豊浦町史』にそのルーツが記されている。

 

『豊浦町史』(1972年発行)

相川神霊教院 所在地 豊浦町字新山梨

 院主相川明が二十歳のとき大神の霊力を知覚し、同時にたびかさなる霊示にいよいよ神意を深く悟り、大神の御心を体して、神にお仕えすることに一身を捧げようと決意した。以来十六年間にわたり、東京・満洲・樺太等に修業し、種々の霊験をうけ、ついに『静息修交霊感応即神』という、神霊の真理に悟達した。

 昭和六年六月二日『わが神霊力にて、治病救世の道を歩め』との大神のお告げを受け、布施救済の道に入り、昭和十三年信者の懇望と大神の導きにより、新山梨の現在地に霊堂を築いたが、同三十二年信者の手で静霊殿(一九一平方メートル)が新築され、さらに同四十五年には広壮な神殿(五六一平方メートル)が建てられている。信者は全国に百数十万人、道内だけでも八〇万人の多き及んでいるという。

 

『新・豊浦町史』(1991年発行)

神霊教院 所在地 豊浦町字新山梨

 初代院主相川明が二十歳のとき大神の霊力を知覚し、度重なる霊示にいよいよ神意を深く悟り大神の御心を体して、神にお仕えすることに一身を捧げようと決意した。以来十六年間にわたり、東京、満洲、樺太等に修業し、種々の霊験をうけ、ついに「静息修交霊感応即神」という、神霊の真理を悟るに至った。

 昭和六年六月二日、「わが神霊力にて、治病救世の道を歩め」との大神のお告げを受け、布施救済の道に入り、昭和十三年信者の懇望と大神の導きにより、新山梨の現在地に霊堂を築いた。

 さらに、昭和三十二年、信者の手で静霊殿百九十一平方メートルが新築された。またこの年、宗教法人の認可を受ける。

 昭和四十五年には、広壮な神殿五百六十一平方メートルと周辺の敷地が庭園風に整備された。

 昭和六十年九月には立教五十五周年を迎える。

 

歴代院主

 初代 相川 明

 二代 相川 光明

 三代 相川 一昭

 

初代の相川明氏が超人的な力を持つすごい人物だったようで、成人になってから霊的な力を自覚し修行に励んだとのこと。

1931年に神のお告げを受けたことで、明氏を教祖と崇める信者も集まり始め、1938年に豊浦町新山梨に拠点を築いたそうだ。

 

明氏は一体どのような力を持っていたのか。

民俗学者の根岸謙之助氏が著した『医療民俗学論』(1991年発行)に、明氏についての記述がある。

 暗示効果による治療は、巫女・修験などの呪医によって、ひろく行われている。たとえば北海道の相川神霊院の相川明氏は北海道全域にわたり、霊感療法師として有名である。人助けの動機は、自分の病気を、寺で修行していて治し、その際霊感が授かったことからであるという。治療の方法は、祈願して、患部に手を当てるだけである。患者は霊的な力を有するとされる、治療者の呪力暗示にかかり、奇跡的と言われるほど早期に治癒する。

(第一章「医療民俗学の方法」の四項「暗示効果による治療」より)

 

明氏はいわゆる”手かざし”で多くの人の病気を治し、当時の道内では大変有名な人物だったそうである。

 

『新・豊浦町史』には豊浦町新山梨の教団本部の画像が掲載されている。

 

ご覧のように立派な建造物である。

80年代前半までは「相川神霊院」という国鉄バスの停留所も存在し、国鉄室蘭本線の豊浦駅から参詣者を運んでいたそうだ。

豊浦町以外にも多くの信者がいたことが窺える。

 

『国鉄北海道自動車五十年』(1984年発行)にはこのバス路線に関する記載がある。

相川神霊院輸送

 相川神霊院は、近代医学に見放された病気の方々を神霊術によって救うといわれ、神霊に頼る人々が、新泉から湧き出るお水を頂くために、入れ物を抱え、東北、北海道の各地から訪れるため、昭和三十二年五月豊浦〜新山梨学校間の路線を相川神霊院まで延長運行したものである。ここの大祭には多くの信者が臨時列車で入り込むために、この臨時列車との連絡輸送を実施したが昭和五十一年三、六四八人の輸送を最高に、昭和五十三年頃からは、自家用車での訪院が多く、大祭の輸送人員も激減した。

 このため、昭和五十八年十一月三十日を最後に神霊院輸送を中止した。

 

もともとは奥新山梨というバス停だったようだが、相川神霊院に名称を変更。

国鉄は豊浦駅発着の臨時列車まで走らせ、バスとの連絡体制を構築し、参詣客に対応したという。

 

北海タイムスがその頃の様子を記事にしていた。

1971年6月23日の夕刊で、「急行を止めた"生き神"さま」として、明氏の銅像除幕式の様子などを見開き1ページを使い大きく取り上げている。

 月に人間が立つこの科学時代に、なお"神霊"で地上の悩みを払うーそんな"生き神さま"が北海道は噴火湾に面した豊浦町の山奥に"鎮座"している。四十年の功徳に打たれた信者たちの手で、このほど銅像も建ち、二十日の日曜日には道内各地からわっと一千余の信者が"ご参拝"うやうやしく除幕の儀が行なわれた。祈とうと神霊水のこの神さま、過疎化の進む豊浦で名を高めている。その貢献度も大きく、式当日は急行列車まで臨時停車。なるほどただならぬご威光ではある。

 豊浦町は新山梨にある『相川神霊教院』(宗教法人)の院主、相川霊明さん=本名・明=がそのご本尊。当年七十五歳。ここは国鉄室蘭本線、豊浦駅から国道三七号線を横切り、北に約十二㌔。明治の末期、山梨県からの開拓移住者百六戸が新天地を求めて切り開いた山奥の純農村地帯である。生き神様もかつては荒れ地と原始林でクワやオノを振るった開拓者の二世。

 大正五年、二十歳の時、造材作業で大けがをしたときに"神の啓示"を受け、いらいさまざまな苦行、迫害と戦いながら昭和六年悟りを得、"治病、救世"の布教、救済の道にはいったという。時に三十六歳。

 ここのお導きは院主のお祈りに加えて『神霊水』と呼ばれる地下水の威力。万病や悩みの解消にズバリだそう『医者から見放されたり原因不明の難病でも、ひとたび院主様に患部をさすっていただき、祈とうを受けた水を内科?の信者は飲み、外科?の患者はつけたりするとピタリです』『医者から見放された手の上がらなかった病気が一週間で自由になった』(信者の話)など不思議な"ご利益"が話題を呼んで、信者は末広がり。道内はいうに及ばず遠くは九州、名古屋、横浜と全国にざっと五万人。道内でも道南地方や地元周辺に約九千人の会員が"登録"され、昨年八月には開教四十周年を記念、ざっと千四百万円の浄財で寺院スタイルの豪華な本部も建てられた。

 今度の銅像は四十年間、病める人や悩める多くの人々を"健康な生活に導いた"院主への敬愛をこめて数万人におよぶ信者からのきょ金約四百五十万円。約三・五㌧のミカゲ石の台座に飾られた像は高さ約一・六㍍。端座する背広姿はいささか生き神様のイメージに違いがこれも日ごろ信者と接するお姿とか。

 晴天に恵まれたこの日の式場はざっと千余の老若男女で押すな押すな。式のあと各地から集まった信者たち、生き神さまの分身に合掌したりさすった手で、肩や腰の幹部をなでるなど信心ひとすじ。

 この日は上り、下りの急行『すずらん』も各一本が臨時停車。昭和三年の開駅いらいはじめての豊浦駅急行停車というから国鉄もご利やくにあずかった。豊浦駅ー神霊院間の国鉄定期バスも平常の二倍、四台の車で一日三往復の定期ダイヤのほか、六往復の臨時便を運転するなど盆と正月が一度にきたような乗降客にホクホク。営業所長みずからヤマに乗り込んで整理に当たるなど神さまの余恵にニンマリ。

 

当時の熱気と隆盛ぶりが伝わってくる。

豊浦駅と相川神霊教院を結ぶバス路線は年間4000人以上を運んだこともあったが、次第にモータリゼーションの波にのまれ、1983年に路線廃止となってしまったそうだ。

 

さて、それからおよそ40年が経った現在はどうなっているのか。

今年8月に撮影されたGoogleストリートビューを見ると衝撃を受ける。

 

建物が朽ちて、屋根の一部が崩れてしまっている。

雑草も伸び放題…もう宗教法人としての実態はないのだろうか。

 

ネット上を調べてみても、誰かが参詣したような話は何も出てこない。

ただ、この神霊教院の敷地は5、6年ほど前までハーブ工房として使われていたようだ。

工房の連絡先は相川静可氏となっている。

現在の代表・相川静氏と同一人物なのだろうか。

 

そして、去年名前を変更した「ことしろ舎北海道本部」とは一体何なのか?

 

実は滋賀県大津市には「ことしろ舎」という神道系の単立宗教法人が存在する。

現在の代表は大谷義和氏となっているが、もともとは大谷司完という人物が始めた宗教法人のようだ。

どんな人物だったのか。

アメリカ在住の牧師でヨガ研究者でもあった関口野薔薇氏が、著者『文芸と宗教:神々は歌いたまう』(1963年発行)の中で司完氏に触れているので引用する。

 そういう古い論争や宗教学を超越して、宗教を全く新しい世界に解放し、日本の宗教界にスウェデンボルグ式の見地を与えたのが、滋賀県の生れで現在もなお大津市内に住んでおられる大谷司完氏である。

 大谷氏はその若き日に京都に出て妻をめとり、新町高辻に小さな店を持っておられたが、今から約四〇年前の大正十年三月三日の夜明け前のことであった。不思議な霊人が彼の許に来て、寝ている彼を呼び起すのであった。

 「わしについて来い」と言って、手招きをするので、司完氏は早速支度をして、その霊人と共に家の外へ出たが、霊人は四条通りを東へ進んで祇園神社の境内に入った。霊人はお宮の本殿の前に坐って礼拝をするので、司完氏もまた同様の手つきで神を拝んだ。

 それから霊人は、将軍塚を指してお山に登って行かれるので司完氏も、また、その後から登って行った。山の途中でひとまず休息したが、その時霊人は大谷氏に教えて「人間は誰でも修行のためにこの世に生れて来たのであるから、どんな境遇におかれても必ずそこで修行を重ね、使命を果さねばならぬ」と言った。

 この話を続けて書くと長くなるから、筆者はここで打ち切ることにするが、その日以来、大谷司完氏は別に仕事をかえたわけではないが、家計のほうはだんだんと恵まれていくようになった。司完氏は、また自分が特に宗教教師になろうと思ったこともなく、一心に稼業に精出して、それによって「一身の修養」を積むことに努力した。

 こんな生活が四〇年も続いたわけだが、その後、霊人は毎週一度か或は二度、司完氏を迎えに来て不思議な場所に連れて行き、不思議な世界の不思議な人間とその生活とを見せて下さるのであった。

 ここに筆者が一言解説を加えておきたいことがあるが、それは霊人が司完氏を迎えに来る時、司完氏の霊魂が肉体から脱出して不思議な世界に行くのであって、この肉体もろとも地獄や極楽に行くのではないということである。しかし、この事実を説明するには心霊科学の知識が必要なので、これを常識的に解説することはできない。

〈中略〉

 大谷司完氏は、その後四〇年の生活において彼がしばしば霊人に連れられて不思議な世界に往き、不思議な人間とその生活を見たことを、いちいちノートに誌しておいたが、四〇年間にそれはすばらしい紙数にのぼった。

 そこで昭和三十二年の十二月、遂にこれを集めて書物として出版したのである。名付けて『天使の声』という。上・中・下の三巻よりなるものであるが、七インチ×九インチ半の大冊で、各五〇〇頁という大きな書物である。

 大谷氏は、人間の総てがこの地球上にただ一度、生れて来るのではなくて、幾度も輪廻転生することを、不思議な世界の人達から聴いて、自分のノートに委しくそれを誌しているのである。『天使の声』を読んでいると、それは東宝や日活の映画を見るよりも更に面白い。活動写真を見て涙が出ることもあるが、あとで考え直して「何んだ。あれは作り話だ」と思ったら涙もかわく。しかし『天使の声』の誌すところは総てが、地球以外の別個の地球の生きた写真であるから、面白くもあり、かつなるほどと合点がいくのである。

 

長々と引用してしまったが、神霊からの啓示を受けた宗教家という意味では、司完氏は相川明氏と同様である。

現在のことひら舎は、小規模でやっているのかもしれないが、表立った活動は見えない。

そんな中で「北海道本部」を名乗る宗教法人が現れたわけだが、相川明氏の教えを捨てての名称変更なのか、それとももともと司完氏と明氏で何らかのつながりがあったのか、その詳細は不明である。

ただ豊浦町の本部外観の荒ぶれ具合を見る限り、ここに人を集めて北海道ブランチとして司完氏の教えを広めているようにはちょっと見えない。

 

豊浦町の神殿が廃れていく一方、相川明氏の教えを広めている神道系単立宗教法人が実は札幌にあった。

 

相川神霊教院本院

認証年月日:昭和60年11月1日

事務所:札幌市厚別区厚別東3条7丁目7番1号

代表役員:相川美成

目的:

 この法人は教祖相川霊明の立教精神を遵奉し、主宰神天照皇大神・教祖大神・有賀姫大神を奉載敬仰して、神拝詞を所依の教典とし、天地を主宰り給ふ根源の神力に順応同化する神霊、神能の道を拓き、神人合一、交霊感応の境地を悟し、以て万物霊長の病苦、及び世俗の苦難を癒し、七難即減、七福即生の神徳を授け給いて人、世を治める万物和合の心身を培い清め、地上天国を創る教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを目的とし、その目的を達成するための必要な業務を行う。

 

豊浦町の相川神霊教院から分派したのだろうか。

"本院"を名乗っているところをみると、何らかの形で袂を分かち自らの正当性を主張しているような印象を受ける。

 

こちらの団体の本部をGoogleストリートビューで確認してみた。

 

小高い丘に建てられた大変立派な施設である。

厚別区にこんなところがあったとは。

公式のInstagramもあり、行事に多くの人が集まっている様子などが投稿されている。

 

 

また、施設内には相川明氏の座像もあるようだ。

北海タイムスに掲載されていた銅像と同じものだろうか。

 

Instagramには、明氏のプロフィールも紙芝居形式で詳しく掲載されている。

非常にわかりやすいので紹介させていただく。

相川神霊教院本院は昭和6年6月2日に立教、つまりお道が始まりました。

絵にある方が、開祖の御教祖様です。

御教祖様は数百万人の方々とのご縁とお救いにより今日の礎を築かれました。

なんと申しましても、大いなる霊力による有難く奇跡的お救いが凄いのです

 

当院の開祖、御教祖様は明治30年8月31日、東京で生まれました。

名を明と申します。

4~5歳の頃には山梨県で暮らしていました。

ところが、明治40年山梨県で大雨があり、その後、明治42年3月に北海道に移り住んだのです。

現在の豊浦町新山梨に入植したのでした。

 

昭和6年5月末のある日、夜寝ている時、明氏は不思議な御霊示を受けました、

「土を捨てろ、治病救世の道にいそしみなさい」というものでした。

つまり、土を捨てろとは農家をやめて、神の道で世のため人のために尽くしなさいということでした。

この御霊示を下さったのが親神様と仰ぐ天照大神様だったのです。明氏の運命が大きく動き始めた瞬間でした。

 

天照大神様のお力とお導きを信じ、神の道を歩むことにしました。

当時は大家族、皆を集め自身の決意を述べ、説得しました。そして各地を布教して歩くことにしました。

でもそのお金がありません。

そこでお蕎麦のタネを売って支度金にしたのでした。

明氏にも家族にも大変な決心でした

 

いよいよ明氏の布教の旅が始まりました。昭和6年6月2日のことです。

全道を10年間かけて歩き、己の神の道を布教する覚悟であったそうです。

ある日、室蘭でのこと。明氏は元気なく沈んだ感じの男性に会いました。

「どうしたのです」と声をかけると、自宅で奥様が病でふせり、医者もお手上げとのこと 「よければ私にみせてもらえませんか」との明氏の申し出に、わらにでもすがるきもちで男性は自宅に案内

 

男性に案内され自宅に着くと、そこにはお腹が腫れ上がった奥様が伏せっていました。

「私に少しお願いさせて下さい」。明氏は一心にご祈禱を致しました。

すると不思議と奥様の顔色が良くなりはじめ、気分が回復してきたのです。

その後、すっかり良くなられたとのこと。

このように、あちらこちらで病や怪我の方々をご祈祷し奇術的なお救いを現しました。

 

神通力で痛み苦しみを取り除く奇跡の噂は各地で広まってまいりました。すると良く言う人もあれば悪く言う人もいます

若者たちは「お前か、今噂の相川は」「不思議なことを起こすってホントか」「インチキじゃないのか」と口々に馬鹿にします

明氏は言いました。「よろしい、なら着いて来なさい」。

橋の上まで来ました。季節は秋 下に流れる川には産卵のためにたくさんの鮭が泳いでいました。

「よーく見ていなさい」そう言った次の瞬間

 

「いぇーーーい」と川面に向かい気合い一発かけたのです。

すると

なんと川の中を泳いでいた鮭たちが頭をそろえ、一直線に並んだのです いや神霊力をもって鮭たちを明氏が並べて見せたのでした。

その不思議な光景に若者たちもタジタジとなったと伝わっています このようにその神霊力により明氏を信じる方々が各地で増えてまいりました。

 

相川明氏は霊明(れいめい)先生と呼ばれるようになり、各地で奇跡的霊力をもって、病、痛み、苦しみをお救いしておりました。

すると信者様からの要望で、ひとつ所に落ち着いて欲しいとのことから、神殿を建立し、日々ご祈祷することになったのです。

 

このあともさらに興味深い話が続くので、気になる方はぜひ公式Instagramをご覧いただきたい。

 

さて、残る謎はなぜ2つの教団に分かれてしまったのか…であるが、そのカギとなりそうな記事を見つけた。

 

週間サンケイ1986年7月24日号には「北の奇蹟 奇蹟の神霊力で心身を癒す 御神示により札幌本院開設 相川神霊教本院」と題したこのような記事がある。

 昭和五十一年三月、霊明氏没後、天照皇大神と霊明氏の御加護をいただき、二代目として御神業を引き継いでいるのが、子息の相川昭美院主である。

 十六歳の時より、父君の元で修行に入った相川院主。以来三十一年間、先代の志を継ぐとともに、自らの神霊力を修行により高めてきた。「実の親が、この世のお救いばかりでなく、来世のお救いまでもいただける道をたてたのです。子供としてこの道を守り、正しくお広めしていくことが私の使命です。」と語る。

 昨年四月には大神様の御神示により、札幌市の厚別に「相川神霊教本院」を開設。待望の札幌進出を果たした。年間増加する信者の要望に応え、地方教院も各地に誕生しており、地域に密着した活動がなされている。

 

一方、こちらは週間サンケイ1987年10月22日号の「心の旅 やすらぎを求めて… 北海道 教祖霊明の意を継ぎ信仰者の心の糧として 神霊教院」と題した記事だ。

 昭和六年、相川霊明教祖立教の日より数えて五十六年の歳月が流れる北海道・神霊教院。

 『天を屋根とし、大地を布団として』(相川光明著)に記されている霊明教祖の生涯は、一教団の教祖という枠を越えた存在を再認識させるにふさわしい神と合一した人間としての稀有のエピソードに彩られている。

 そして、それを受け継ぐ教院の二代目は、霊明氏の子息相川光明氏(前記著者と筆者)であり、現在の院主である。さらに現教主の相川優尊氏は、三代目ということになる。

 この他、優尊氏の姉婿・堀永夷直参事長(至誠会代表)を中心に、無数に存在する信仰者集団が教院を側面から支えている。

〈中略〉

 北海道内は言うに及ばず、全国に数多い信仰者を有する神霊教院だが、特に本州から訪れる人々に、少しでも足の便を軽くしてもらおうという意向から、札幌市内に神霊教院札幌道場を設けており、現在ここの主管として活動を続けている相川優尊氏は、前述の通り、神霊教院教主の立場にある人。空港からほど近い場所に位置し、遠来の信仰者こ相談を一手にひき受けている。

 

お分かりだろうか?

この2つの記事はどちらも死去した相川明=霊明氏の教えを継いだ宗教法人の話をしているが、同じ法人の話をしているわけではない。

1986年7月24日号は厚別の相川神霊教院本院について、1987年10月22日号は豊浦の神霊教院について触れているのだ。

 

明氏亡き後、明氏の息子・昭美氏と光明氏の兄弟は(どちらが兄で弟かは不明)後継者争いでもめたのではないか。

昭美氏は豊浦を飛び出す形で厚別に新たな宗教法人を作ったのだ。

一方で豊浦の法人は明氏の息子・光明氏と優尊氏という人物が継いだ。優尊氏が光明氏とどういう関係にあたるのかについては、記事に言及がないのでわからない。

 

厚別の相川神霊教院本院は、紆余曲折はあったのかもしれないが、いまなお健在。公式Instagramを見ると、昭美(明美)氏は去年1月に84歳で亡くなっているが、相川美成氏という人物が二代目として継承している。

これに対し、豊浦の神霊教院はその後寂れてしまった。札幌の中央区界川にも道場を設けていたようだが、それもいつしか消滅。一体何があったのか、その理由がわかるような資料は見つかっていない。しかし、宗教法人として解散したわけではまだないのである。相川姓を受け継ぐ静氏が、名称を「ことしろ舎北海道本部」に改め今後どのような展開をみせていくのか、注目していきたい。