鐘ヶ嶽にハイキングに行ってきました。

ここは神奈川県厚木市にある標高561mの山で昔、竜宮?から上げた鐘をこの山に納めたという伝説や、戦国時代に上杉定正の居城であった七沢城への合図のため、鐘が置かれたとの話もあるようです。

 

鐘ヶ嶽(神奈川県厚木市)

 

 

登山道を歩いていくとある分岐に出会い、寄り道をしてみることにしました。

 

 

しばらく歩いていくとお墓が見えてきました。

墓石には以下の文字が刻まれていました。

「当所城主上杉定正公奥

 長皎院孤月了円大禅定尼

 延徳三年(1491年)8月23日」

どうやら上杉定正公の奥方のお墓のようです。ハイキングを終えた後、ふと彼女をめぐる歴史に興味が湧き、調べてみることにしました。理由は上杉定正が若い頃見たNHKの人形劇「新八犬伝」の中に登場する悪役「扇谷定正」(おおぎがやつさだまさ)のモデルとなった人物だからです。ネット上の記事によると内室の位牌が麓にある広沢寺にあり、鶴姫と呼ばれていたようです。

 

彼女の年表を作ってみました。(一部推測)

144?        長尾景信の長女として生まれる。

                兄は長尾景春

1461        長尾景信が山内上杉家家宰就任。

146?        扇谷上杉家 上杉定正と縁組

1467       上杉顕定関東管領就任

1473     長尾景信死去

               上杉定正関東管領就任

1476       実兄長尾景春の乱(-1480)

1486       太田道灌暗殺

1487       長享の乱

1488       七沢城陥落。

1491        広沢寺付近で自害(自害沢)

 

鶴姫の誕生は1440年代の半ばあたりでしょうか。この頃は大きな事件もなく幼少期は平和に過ごしたのでしょう。彼女が10代の頃、父景信は家督を継ぎます。この時期に縁組が行われたのかもしれません。1460年代後半山内上杉家の家督相続、足利成氏との対立など大変な時期が始まります。1473年、父景信の死、夫定正の関東管領就任、実兄景春を巡る人事など転機を予感させる事件が続きます。そして1476年、景春は上杉顕定や夫定正に反旗を翻すこととなったのです。この骨肉の争いに心中如何許りだったのでしょうか。「長尾景春の乱」と呼ばれるこの事件は扇谷上杉家の家宰、太田道灌の尽力で収束に向かいました。しかし、鶴姫にとって実兄を痛めつける家臣の太田道灌に対して負の感情を持ち、そのことが夫定正や他の家臣にも以心伝心で伝わり、その後の道灌冷遇の一因になったのかもしれません。さらに上杉顕定の思惑等も重なり、1486年定正の謀により太田道灌は暗殺されました。それを引き金として長享の乱が勃発。兄景春を含めて上杉定正と上杉顕定の戦いが始まったのです。その戦いの最中、鶴姫は広沢寺付近で自害を強いられたのでしょう。

 

太田道灌暗殺により、後世「八犬伝」では悪役として定着した扇谷定正ですが定正、鶴姫を巡る人間模様を見回した時、ある意味、必然の流れであったように私には思えました。