過日ある教育雑誌でスクールカウンセラーの手記を読んでいたときに「自分が見えない子供達」という文節が目に止まりました。筆者が相手にしているのは中学生ですがカウンセリングの対象となる問題を抱える生徒の多くが自分自身に対する無知無関心の中にあり、このような「自分が見えない」状態のもとでは問題そのものの所在にさえ気づかれることがないので問題解決の前段階として先ず自分が見えるようにすることから始めなければならないという内容でした。
「自分が見えない」という表現に妙に心惹かれたのは、ここで問題にされている状況は現代社会におい
ては何も問題を抱える中学生に限ったことではなく私ども大人をも含めて社会一般に広く根を張った病巣のようものではないかという思いに一瞬とらわれたからです。
今ほど個人の尊厳が声高に叫ばれ、個人の幸福、個人の自由、個人の尊重が追求されている時代はないはずですがそれとは裏腹に個人の人間性、精神性が何か浅薄になっているような気がしてならないのですがこれは私だけの錯覚でしょうか。そしてその背景に正に人々をして「自分が見えない」ようにしてしまう得体の知れない不気味な影の存在が感じられて仕方がありません。
家庭生活をはじめ学校生活、職場生活等あらゆる生活の場面において様々な問題が生起することは、そ
れが人間社会である以上避けがたいことかもしれませんが問題の渦中において個人のレベルでお互いが「自分が見えない」状態の中にあるとすれば問題状況は一層複雑な様相を呈することになるのではないでしょうか。
教育問題に限っていえば目下最も深刻で早急な解決が求められているものに“いじめ”の問題がありま
す。行政がやっきになって学校現場に様々な方策を指示し檄を飛ばしてもなかなか解決の糸口が見いだせない状態が続いています。実はこの問題の背景の一つにも「自分が見えない子供達」の姿が見え隠れしており、一筋縄ではいかない困難な状況の一因となっているような気がしてなりません。「自分が見
えない子供達」にとって日常の振る舞いはなかなか内省的に捉えられることがないため、他人を死にまで追いつめるような行為に関わっておりながらまるでその自覚がないというような現象が現出するのではないでしょうか。“いじめ”以外の“非行”“校内暴力”“不登校”等の教育問題の底流にも「自分が見えない」ことに起因する一群の症候を認めないわけにはいきません。
よく子供社会の問題は大人社会の反映であるといわれますが確かに大人社会の中にも「自分が見えない」ことから派生すると思われる種々の社会問題が散見されます。バブル経済の狂乱とその崩壊に振り回されている大人達の姿などは欲得のみに目を奪われ「自分が見えなくなった」端的な例ではないでしょうか。
嘗て世間を騒がせたオウム真理教にまつわる一連の問題もこの観点から観察してみるとなかなか興味深
い側面が見出せるかもしれません。
このような「自分が見えない」状況は一体何に由来するのでしょうか。
独断と偏見を承知の上でいわせてもらえば一つには現代の社会全体がパスカルのいう“気晴らし”で横溢していることにあるような気がします。人は深刻な問題に直面したとき否応なく自分の内面に目がいくものですがそれは大抵、懊悩や苦渋をともなうものです。そんな時、一時でも気を紛らわせてくれる“気晴らし”があれば人は簡単にそれにのめり込み問題から目をそらすことを選ぶというのがパスカルのいう“気晴らし”論です。
代はその意味では気晴らしに事欠かない時代です。いやなことには目をつぶりいとも簡単に気晴らしにうつつを抜かすことの出来る時代です。このような状況の中では真正な自分と向き合うという苦悩をともなう精神作用など生まれるはずもありません。さらには生活のテンポの速さもこれに拍車をかけているかもしれません。ただセカセカと時間に追われる現代人にはなかなか自分の内面に目をやる余裕はないのかもしれません。
しかし誰しもこのような現状をよしとは思っていないのではないかと考えるのですが・・・・。
「彼は目があっても見えず、耳があっても聞こえない」という聖書の警句に思いをいたしながら私自身
、自戒の念をこめて自分自身の見直しにもっと意を注がなければと言い聞かせているところです