予期していたこととはいえ、×月×日のS君の訃報は我々にとって大きなショックであり悲しみであった。
骨肉腫という不治の病に冒されたことが判明したのが今年の2月、春休み帰省後、直ちに入院し、闘病生活に入ったが程を経ずして肺への転移が確認され医師からも絶望的であることが宣告されたとのことである。左足膝関節の痛みに耐え通院しながら春休みまで懸命に学校、寮生活を続けていた彼の姿を思うにつけ、それが誤診であってくれればと考えたことも一再ならずあった。
生来、虚弱な体質の彼は小学、中学時代学校の欠席日数が非常に多かったため本校での寮生活には一抹の不安があったが、しかし本校では一年間、健気にがんばり通したことは我々のよく知っているところである。
生来、虚弱な体質の彼は小学、中学時代学校の欠席日数が非常に多かったため本校での寮生活には一抹の不安があったが、しかし本校では一年間、健気にがんばり通したことは我々のよく知っているところである。
彼との最後の対面は今年の学園祭のときに医師の特別許可を得て来校し一夜を寮の自室で過ごしたときのことであるが、私が彼のもとを訪れたとき彼は寮に残した参考書等の勉強道具の整理に余念がなかった。その様子を見る限り、不治の重病を患っているようには到底思えなかった。そして淡々と病状の経過を話してくれたうえで復学できる日も間近いと思うので、勉強の方もがんばらないといけないと語っていた彼の明るい表情は今も脳裏に焼きついて離れない。勿論、彼は自分の真の病名を知らされることはなかったので更々自己の命数に思いおよぶこともなかったであろう。恐らくは死を迎えるその瞬間まで生きることの希望は途絶えることはなかったのではなかろうか。彼のことを考えるとき、私にはそれが唯一の慰めのように思えてならない。
現実に彼は我々とは峻別された世界の人となってしまった。
現実に彼は我々とは峻別された世界の人となってしまった。
彼は我々の目の前から忽然として消えていった。これは死という冷厳な事実としてとらえたとき、理性には分かりきったことであり何の疑問もないことであるが、しかし心の中には解きがたい謎として残る。「死とは何か」「生きるとは何か」我々は親しい人を失ったとき痛切な感情をもって真剣に考える。
我々人間にとって死の想念は常に意識の底に潜んでいるが、大抵は意識の表面から排除されていることが多い。そのために我々は日常的には「死」について本気で考え真面目に悩むことが少ない。そして時間は否応なく過ぎ去って行く。
今、S君の死を前にして私は生徒達と共に真剣に己の生と死について己に問うてみなければならない。
死について誰にも解っていることがある。それは今私は生きているがいつしか私もあの人達を追って死ぬのであろうことである。しかし日常的には死とはともすれば他人事であり、世間的な出来事であり儀式であって、やがては忘れ去られるものでしかない。そして我々はそれが自分の身の上にだけは決しておこらないことであるかのように錯覚していることがいかに多いことか。しかし、これがやがては自分の番になってまわってくることは確定的であり疑うべくもない。このことに思いいたるなら、いま生きているという事実は全く特別な意味あいを帯びて我々に迫ってくるはずである。生きていることは当然と思い込んでいたことがいかに浅薄に感じられることか。ある哲学者か言う如く我々は唯一人の例外もなく死刑囚の身であり、今は唯、刑の執行が猶予されているのに過ぎないのである。死の意味は人間と他の生物とでは根本的異なるといわれている。他の生物はそれを全く解することがなくその意識にのぼることもないといわれている。しかし人間にとっては死は一つの独立したイメージとしてその意識を脅かすものであり、またそれは大抵の場合、漠然とした畏怖と戦慓であったとしても、たしかに人間の心を領するものである。この意味では人間は虫や鳥獣とは決定的に違い死について考えるべく作られた存在といえるのではないだかろうか。
人間はただ目前の現実に縛られているのではなく、過去をも未来をも自己の思考の対象とすることができる。
死について誰にも解っていることがある。それは今私は生きているがいつしか私もあの人達を追って死ぬのであろうことである。しかし日常的には死とはともすれば他人事であり、世間的な出来事であり儀式であって、やがては忘れ去られるものでしかない。そして我々はそれが自分の身の上にだけは決しておこらないことであるかのように錯覚していることがいかに多いことか。しかし、これがやがては自分の番になってまわってくることは確定的であり疑うべくもない。このことに思いいたるなら、いま生きているという事実は全く特別な意味あいを帯びて我々に迫ってくるはずである。生きていることは当然と思い込んでいたことがいかに浅薄に感じられることか。ある哲学者か言う如く我々は唯一人の例外もなく死刑囚の身であり、今は唯、刑の執行が猶予されているのに過ぎないのである。死の意味は人間と他の生物とでは根本的異なるといわれている。他の生物はそれを全く解することがなくその意識にのぼることもないといわれている。しかし人間にとっては死は一つの独立したイメージとしてその意識を脅かすものであり、またそれは大抵の場合、漠然とした畏怖と戦慓であったとしても、たしかに人間の心を領するものである。この意味では人間は虫や鳥獣とは決定的に違い死について考えるべく作られた存在といえるのではないだかろうか。
人間はただ目前の現実に縛られているのではなく、過去をも未来をも自己の思考の対象とすることができる。
それゆえに我々は、死をやがては来るべき既定の普遍的事実として受け入れることができるのである。
その時我々は現在そして自分の未来に残されている時の重みに飄然とし、今生きていることの価値について、あらためて覚醒するのである。その時こそ我々は今もっている現在という時の意味を再構築し、生きる力に精神的昂揚を覚えるのである。死を直視し、生の緊張を実感として維持できるなら我々はより高度な生活を送ることが出来るにちがいない。我々の生にはタイムリミットがあるという意識は自分の生活をケジメのあるものに変えてゆく。そうでなければ我々は目前の楽しみだけに心を奪われ、いたずらにその日その日を過ごしてしまうであろう。そうでなくとも「明日は明日こそは」と一日のばしにのばしているのが人間の常なのであるから。
生きる意欲に燃えていたにもかかわらず冷厳な死にその命を奪われたS君を思うとき、我々は何よりもつぎの言葉を己のものとし自分の生を律していきたいものである。
「人間らしくなりたいものです。一日一刻、一分間の中にも意義を見出して行きたいと考へます。・・・・・・」 (戦犯刑死者の手記より)
「人間らしくなりたいものです。一日一刻、一分間の中にも意義を見出して行きたいと考へます。・・・・・・」 (戦犯刑死者の手記より)