複雑な現代社会に生きる私達にとってストレスは避けがたいものといわれ、またストレスは現代人特有の病弊などともいわれています。今ではすっかり日常語化したこのストレスという言葉ですが元来は機械工学的な用語で、物体を圧縮したり引き伸ばしたりしたときに生ずる<歪み>を意味し、1936年にH.セリエという医学者によって提唱されたストレス学説によって広く流布するに至ったとされています。邦訳語は<負荷>でこのほうが意味はとらえやすいように思われますが、ほとんど用いられず外来語のままで使用されているのが現状のようです。ストレスド負荷の要因としては頭脳・神経を酷使する仕事や複雑な人間関係等に代表される諸々のものがあげられよすが、それが脳に緊張を強要し神経を痛めつけている状況がストレスの状態ということのようです。この状態がどんどん昂進し心身の疾患にまで発展した場合が心身症=ストレス病ということになるようです。
現代人にとってストレスの因子となるものは挙げていけば際限がないほどで事実このために精神的な疲弊を来している人々を見受けることも間々ありますが現状がどうであれ、こういう現代社会で暮らす以上はストレスに刻する正しい認識を持つことは当然要求されるところです。
一般にはストレスという言葉から連想されるのはどうしても暗いマイナスのイメージです。それは精神や神経を病むことと関連づけて語られがちで現代社会に生きるものの半ば宿命という形で受け取られがちです。実際にストレスといわれる状況に遭遇したとき、それに対応する仕方としていわれるのは対症療法的なものがほとんどでどうしても消極的な取り組みに終始してしまうことが多いようです。このため現代人であるわれわれは時にはストレスという言葉を隠れ蓑にしてわれわれを取り巻く問題状況に故意に目を閉じ自らを病む者として封じ込めることで現実逃避をはかるような場合がなきにしもあらずという感じがしてなりません。
自分の生活を直視する際に厳に戒めなければならないのは実はこの点ではないかと思います。問題状況に背を向け自分の脆溺さに病という衣装を纏わせそれを表看板として掲げることだけで問題解決が図れるならこんな楽なことはないでしょう。しかしこのような生活姿勢をとるなら解決への道は遠のく一方でかえって困難の度合いは益々膨れ上がり、ついには過度の精神的な圧迫が本物の心身の病気に追い込んでいくことになりがちです。
人間である以上ストレスと呼ばれるものと無縁な生活は考えられません。ストレスという言葉が使われるようになる遥か以前から大袈裟にいえば人類が誕生したその時から個人の生活には今でいうストレスと全く同質の問題がついてまわっていたはずであり、これをいかにも現代人特有のものとして限定し、病弊としてその対応に汲々とするいきかたには少なからず疑問を感じます。
むしろ人間共通の一般的な問題としてとらえ種々の困難な状況、まさにストレスが鬱積するような境遇の中で立派な生涯を送った先人の生き方のなかに問題解決の手がかりを求めることの方がずっと勝っているような気がしてなりません。この点で先ず思い浮かぶのは生涯様々な問題・苦難に遭遇しながら、かえってそれを自分の精神的成長の糧とし、その反映として崇高な音楽芸術を開花させたベートーヴェンです。その生涯を見るとき、そこに認められるのは苦難に対する勇猛果敢な挑戦精神ではないかと思います。
「苦しみを通して歓びにいたる」という彼の信念は作品の主要なテーマであり、その力強い楽曲が人々を鼓舞してやまないのはこの所以ではないでしょうか。
ストレスをバネにかえって自分を高めていく生き様は現代という時代状況の中に埋没し、そのことを一つの言い訳として、なれ合い的に生きているわれわれの目を見開かせるに十分なものです。そして苦難に負けずに生きようとする場合には大きな励ましを与えてくれるものです。ストレスを文字どおりマイナスの負い目としてだけみるのではなく人間を高める契機ともなり得る負い目として理解できるなら、それに耐える力も自ずと湧いてくるのではないでしょうか。
「弱いときこそ強い」(コリントニ12.10)という聖パウロの逆説は、ここでも通用しそうです。
現代人にとってストレスの因子となるものは挙げていけば際限がないほどで事実このために精神的な疲弊を来している人々を見受けることも間々ありますが現状がどうであれ、こういう現代社会で暮らす以上はストレスに刻する正しい認識を持つことは当然要求されるところです。
一般にはストレスという言葉から連想されるのはどうしても暗いマイナスのイメージです。それは精神や神経を病むことと関連づけて語られがちで現代社会に生きるものの半ば宿命という形で受け取られがちです。実際にストレスといわれる状況に遭遇したとき、それに対応する仕方としていわれるのは対症療法的なものがほとんどでどうしても消極的な取り組みに終始してしまうことが多いようです。このため現代人であるわれわれは時にはストレスという言葉を隠れ蓑にしてわれわれを取り巻く問題状況に故意に目を閉じ自らを病む者として封じ込めることで現実逃避をはかるような場合がなきにしもあらずという感じがしてなりません。
自分の生活を直視する際に厳に戒めなければならないのは実はこの点ではないかと思います。問題状況に背を向け自分の脆溺さに病という衣装を纏わせそれを表看板として掲げることだけで問題解決が図れるならこんな楽なことはないでしょう。しかしこのような生活姿勢をとるなら解決への道は遠のく一方でかえって困難の度合いは益々膨れ上がり、ついには過度の精神的な圧迫が本物の心身の病気に追い込んでいくことになりがちです。
人間である以上ストレスと呼ばれるものと無縁な生活は考えられません。ストレスという言葉が使われるようになる遥か以前から大袈裟にいえば人類が誕生したその時から個人の生活には今でいうストレスと全く同質の問題がついてまわっていたはずであり、これをいかにも現代人特有のものとして限定し、病弊としてその対応に汲々とするいきかたには少なからず疑問を感じます。
むしろ人間共通の一般的な問題としてとらえ種々の困難な状況、まさにストレスが鬱積するような境遇の中で立派な生涯を送った先人の生き方のなかに問題解決の手がかりを求めることの方がずっと勝っているような気がしてなりません。この点で先ず思い浮かぶのは生涯様々な問題・苦難に遭遇しながら、かえってそれを自分の精神的成長の糧とし、その反映として崇高な音楽芸術を開花させたベートーヴェンです。その生涯を見るとき、そこに認められるのは苦難に対する勇猛果敢な挑戦精神ではないかと思います。
「苦しみを通して歓びにいたる」という彼の信念は作品の主要なテーマであり、その力強い楽曲が人々を鼓舞してやまないのはこの所以ではないでしょうか。
ストレスをバネにかえって自分を高めていく生き様は現代という時代状況の中に埋没し、そのことを一つの言い訳として、なれ合い的に生きているわれわれの目を見開かせるに十分なものです。そして苦難に負けずに生きようとする場合には大きな励ましを与えてくれるものです。ストレスを文字どおりマイナスの負い目としてだけみるのではなく人間を高める契機ともなり得る負い目として理解できるなら、それに耐える力も自ずと湧いてくるのではないでしょうか。
「弱いときこそ強い」(コリントニ12.10)という聖パウロの逆説は、ここでも通用しそうです。