11月も半ばを過ぎると早いところでは、クリスマス商戦の開始とかでシングルベルの楽の音が賑やかに嶋り出します。よくいわれることですが信者数からいって決してキリスト教国といえない日本においてクリスマスがあたかも国民的行事であるかのように広く行き渡っているのは奇異としかいいようがありませんがその背景にある日本人の国民性とか商業主義とかその善悪とかの難しい論議はさておいてもこれが日本の1つの風物としてすっかり定着しているのは紛れもない事実です。恐らく日本では多くの人々が宗教とは無関係にこの日本の風物と化したクリスマスというものに馴染み親しんでいるのではないでしょうか。そこでは大きな袋を担いだサンタクロースや華やかに飾られたクリスマスツリー、クリスマスのデコレーションケーキ等がお祝いの主役でありイエス・キリストの誕生というテーマはすっかり忘れ去られているように思えます。自分自身のことを振り返ってみてもキリスト教に縁もゆかりもなかった少年時代にはクリスマスというものに何とはなしに西洋の文物に対する憧れに似た気持ちで接していた記億がありますが今にして思えばその対象は何のことはない先に述べた日本的風物のクリスマス以外の何ものでもなかったような気がします。
  しかし考えてみればクリスマスを宗教的行事として受容しているわけではない人々にとってはこれは半ば当然の成りゆきなのではないでしょうか。この換骨奪胎とも見て取れる日本的?クリスマスを批判したり弾劾する資格は到底自分にはないのでこのことについてはこれ以上言及するのは避けたいと思います。
 私白身は成人してからキリスト教の道に入ったのでその経験から世間一般とは多少観点を変えてクリスマスについて述べてみたいと思います。
  今では一般にもよく知られていることですが12月25日のクリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日ではありますがこの日がキリストの誕生日というわけではありません。この誕生日をめぐっては諸説がありますが定説はないようです。
  キリストの誕生を祝う儀式は3世紀に入ってから行われるようになったといわれていますがそのころは日付は一定せず1月6日、3月21日、12月25日のいずれかが選ばれていたとのことです。 12月25日に定着したのは354年からとみられ4世紀の末にはキリスト教国全体で祝われるようになったとのことです。その日付確定の背景には当時教会が布教の対象としていたローマ人やゲルマン人の慣習・祭日との同化、集合の方策があったといわれています。
 私白身キリスト教の世界に入って初めて知ったことですが教会には1年間をキリストの事績を主な流れとしてとらえた固有の暦があり、信者の生活はこの暦によって導かれているという事実があります。この暦の開始はいわゆる1月1日の新年ではなくクリスマスに先立つ4週前の日曜日です。従って日付は一定しません。この教会の暦開始の時節を待降節と呼びますがこれには文字通りキリストの降誕を待ち、その喜びの日を迎えるにふさわしい準備を整える期間という意味あいがあります。
それはメシア(救世主)の出現を待ち望むユダヤ民族の思いそのものでキリストの降誕を待ち望むことであり、キリスト出現以前の預言者といわれる神のメッセージを託された人達が宣べ伝えた「主の道を準備する」ことでもあるのです。
 蛇足ながら「ハレルヤコーラス」で有名なヘンデルの大曲オラトリオ「メサイア」はこの預言と降誕をテーマにした壮大なパートから始まりますがその厳粛で美麗な調べの数々は正にこれぞクリスマスの時期にふさわしい音楽です。一聴をおすすめします。クリスマスがキリスト教徒にとって大きな喜びの日であることは当然のことですがその日を迎える前にはそれ相応の準備期間が設定されており固々に真剣な対応が求められているということは一般にももっと知られていいことではないかと思います。
 ところで信仰を持つものにとってはキリストの誕生とは歴史としての二千年前の1回限りの事件であると同時にもうひとつ特別な意味あいが加わります。
それは自分とキリストとのかかわり合いにおける自分の中におけるキリストの誕生ということです。
実はこれこそが信仰生活においては重要な位置を占めなければならないものでありクリスマスの大切な宗数的側面の1つとなるものです。
そしてこれは折にふれて更新、深化していかなければならないものです。
教会が1年を周期として人々に時節に応じてキリストの事績に思いを致させながらその信仰生活を導くのはそのためであり、これは恐らく長い歴史の中で蓄えられてきた教会伝承の体験と英知によるものなのでしょう。
 今年のクリスマスが皆さんとキリズトとの良き出会いの機縁となることを願って・・