昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重は、すっかり有名になってしまったが会津ゆかりのもう一人の八重の存在はあまり知られていない。井深八重がその人だが姓から察せられるとおり自刃した白虎隊十九士の一人、井深茂太郎やソニーの創始者、井深大の家系に連なる女性で数奇な運命に翻弄された挙句、ハンセン病者への看護と奉仕活動に一身をささげつくした人である。
イエス・キリストに対する全き信服と他者愛に裏打ちされた自己犠牲と忍苦に貫かれたその生涯は地味なもので華やかさとは無縁であった。晩年こそ、その活動が認められヨハネ23世教皇からの聖十字勲章をはじめ国際赤十字からの看護婦にとっては最高の名誉とされるフローレンス・ナイチンゲール記章、等々の栄誉に浴したが聖句「一粒の種」に一生を托した八重の目には、それらは果たして、どれ程の価値に映じていたのだろうか。
八重は明治30年(1897年)に台湾の台北市で生を受けた。 三歳年下の弟は生後一カ月で夭逝している。 父・井深彦三郎は大陸浪人の流れをくみ軍の中国大陸侵攻関連に没頭していて家庭を顧みる暇もない人だったという。やがて一家は東京に転住することになるが七歳のときに両親は破局を迎え離婚したため、母とは離別する。父は再婚したものの幼少の娘は手に余ったのだろう、程なくして祖母八代に預けられたが、生活の場は父の長兄、井深梶之助の家庭であった。そこでは家族の一員として大切に慈しみ育てられた。
養父、井深梶之助は日本基督教会の牧師で教会の指導者の一人として活躍したが当時は自分達が創設した明治学院の二代目総理を務めていた。
そもそも井深の家系は信濃、高遠藩保科家重臣から発し藩祖、保科正之の家老として会津に入った茂右衛門重光が会津での元祖となる。重光の男子3人は分家するが、幕末には更に7分家となっていた。
梶之助、彦三郎兄弟の井深家は重光の三男、清大夫重堅から始まる家系である。
兄弟の父、宅右衛門は藩主が京都守護職の任に在った時には会津藩軍事奉行として京にいたが慶応2年(1866年)会津へ戻った際には学校奉行に任ぜられ藩校・日新館館長として藩士子弟の教育にあたった。戊辰戦争では日新館の師弟で編成された第二遊撃隊頭として越後の会津藩飛び地の守備にあたったが敵軍が会津城下に侵攻したため、やむなく撤退して籠城戦に加わり、側用人として藩主父子の傍らで仕えた。
藩の降服後は藩主・松平喜徳に従い江戸で謹慎生活を送ったが斗南藩再興時には五戸に移住させられる等、辛酸をなめることとなるが、その後明治6年(1873年)には会津に戻り、若松区長、田島村戸長等を勤めた。
ついでに記せば宅右衛門の妻、兄弟の母(八重の祖母)八代は西郷瀬母近悳の実妹である。
長男だった梶之助は戊辰戦争時15歳であったが年少で白虎隊には入れず、父の後を追って越後に向い一緒に戦い、その後同様に籠城して松平容保の側で小姓として戦った。開城降伏後は藩士たちと共に猪苗代で謹慎生活を送るが明治2年 (1868年)には老幼女子の一団に配され、河辺郡水谷地村(今の喜多方市)で親族と共同生活を送る。同年4月、塩川町に再興された藩校日新館の仮舎で次男の勝治と共に学ぶが10月に日新館長から洋学修業辞令を受けて上京し藩の洋学塾に入る。しかし藩の財政事情に左右され二転三転することになるが明治4年(1871年)横浜で、あることが契機になり英語を学ぶようになる。その時出会ったアメリカ人宣教師ブラウンの影響により、その後キリスト教の道を一途に歩むことになる。
八重の父、彦三郎は三男で他の分家、井深守之進の養子となったので長兄とは別の命運をたどった。白虎隊士茂太郎は盛之進の実子なので義兄になる。戊辰戦争時は2歳であったが敗戦後は一族と共に斗南配流の憂き目に会い、極貧の中で幼少期を過ごした。長じて18・9歳の頃上京して英語を学び明治19年(1886年)に妻の兄、荒尾精と意気投合して中国に渡った。日清戦争、日露戦争では軍務に従事したが、後に清政府の顧問として満州開発に携わったりもしている。他に軍の秘密工作員として活動したともいわれている。明治45年(1912年)には衆議院議員総選挙に福島県から出馬し当選しているが大正5年(1916年)に北京で客死した。八重は女癖の悪かった父を毛嫌いしていた。
なお生母はその後、再婚し三男一女の母となり昭和29年(1954年)に京都で没しているが早世したとしか知らされていなかった八重は生前この事実を知ることはなかった。
八重は小学校卒業まで明治学院の構内にあった梶之助の家で過ごすがこの時、早世した彼の妻に代わり養育してくれたのが井深本家当主・常七郎の妻、登世であった。新島八重等と共に籠城して負傷者の看護や弾丸作り、炊き出し等にあたった人で、自刃した西郷一家の女性達の遺骨を集めて善龍寺に運び弔ったことでも知られている。八重は彼女から会津女性魂の甚大な影響を受けており二人の関係は登世が亡くなる 昭和19年( 1944年)まで続いた。また祖母八代や養父梶之助からも会津士魂の精髄を度々聞かされていたであろうことは想像に難くない。
小学卒後の明治43年(1910年)には同志社女学校普通学部に入学させられたが大正7年(1918年)に専門学部英文科を卒業するまでの8年間は寄宿舎生活を送っている。ここでのキリスト教的気風に満ちた生活が自分の精神的土壌を培ってくれたと後年、彼女自身述べている。
同志社女学校入学の背景には養父梶之助と新島譲は親交があり、また新島八重と旧知であったことや登世が山本覚馬、新島八重の兄妹と交わりがあったことなどが推測される。恐らく彼女自身も新島八重の知己を得ていたのではないだろうか。
英文科を終えると長崎の県立高等女学校の英語教師に就き、充実した新しい人生のスタートをきった。しかし、その二年目、腕に湿疹状のものが出て消えないという症状が現れ診てくれた医者のすすめもあって福岡の大学病院で精密検査を受けることになった。
偶々その時教授が不在で代診の医師が診察したが「ハンセン病の疑い、要再診」という診断結果は本人にではなく養父に伝えられた。
ハンセン病は当時「癩病」と呼ばれ、肉体を蝕む伝染性の不治の業病として人々に恐れられ忌み嫌われており、家族が発病すれば遺伝病との説もあったので、ひたすら隠蔽し世間から隔絶するのが常だった。
八重は再診を受けることなく直ちに養父および伯母によって静岡県御殿場にある救癩施設、神山復生病院に連れて行かれ隔離入院させられた。その上、井深の籍も抜かれたので堀清子と改名した。22歳の時のことであった。
神山復生病院はパリ外国宣教会のテストウィード神父によって明治22年(1889年)に創られた我国では初の救癩施設であり、当時世間から見捨てられていたハンセン病者を救護するために設けられた。創設時は病院とは名ばかりの貧弱な施設だったようだ。
因みにパリ外国宣教会は徳川幕府の厳しい弾圧で途絶したカトリックの明治以降の再布教に尽力し、再興に多大な貢献をした宣教会でパリに本部があり偉大な宣教師を多数輩出している。現在も全世界で活躍しており国内では北海道(札幌、函館等)をはじめ各地の教会で宣教、司牧の任に当たっている。明治大正期には会津でも大いに活躍し多くの実績を残している。
病名を知らされることもなく入院させられた先では、顔面が蝕まれ崩れている人や鼻や手足の指が腐食し欠損してしまった人などの姿が、いやでも目についた。
そこは思わず目を背けたくなるような症状を抱えて、塗炭の苦しみの中で死を待っているような癩病者達が住まう凄惨な場所だったのだ。
「見るのも恐ろしく、怖くて近づけない」というのが患者たちに対する最初の偽らざる気持だったという。
そこではフランス人のドルワール・ド・レゼー神父が院長として孤軍奮闘していた。癩病に対する差別と偏見のため看護婦のなり手は全くなく、症状の軽い患者が、重症者の世話をするなどしてお互いに支えあって生活しているというのが実情だった。
入院後、初めて病名を知った八重は絶望のどん底に突き落とされた。その衝撃と恐怖のあまり幾夜も泣き明かし、度々自殺を考えたという。後年、彼女自身「一生の間に流す涙を流し尽くした」と当時の様子を懐古している。
養父は亡父が残した八重の遺産の一部を病院に寄付し病院敷地内に新しい一軒家を建てる工面をしてくれた。
家が完成する頃には、ようやく奈落の苦しみから立ち直り、どうにか自分を取り戻すことができるようになっていた。そこで目にしたのは笑顔を絶やさず感染の恐れなどまるで気にかけることもないように素手で病者の患部に触れて治療に当たるレゼー神父の献身的な姿であった。と同時に神父に接する患者達の明るい表情と一日一日を大切に生き抜いている姿を目の当たりにする。希望を絶たれ死の影に怯えるはずの人たちがお互いに寄り添い助け合いながら粛々と生きている姿を眼前にして彼女の心中には大きな変化が訪れる。またこのころ修道女の身で罹患し、次第に病状が悪化していた本多ミヨに出会い、その言動から深い感化を受けている。
英語が堪能でオルガンを弾けることが神父に知られるにおよび秘書としての仕事も与えられた。このようにして次第に自分の生きる方向にも一条の光明が見出せるようになっていった。そんなある日曜の朝、神父のすすめで初めてミサ聖祭に参加する。そこで彼女は生涯忘れることのできない場面に出くわすのだ。
絶望の淵に沈んでいるはずの患者一人一人が、そこでは顔を輝かせて聖歌をうたって神を賛え、感謝の祈りをささげているではないか。夢想だにしなかった感動的な光景に衝撃を受けると同時に「ここにいる患者さんたちは、すべてのものを失っても、またどんな苦しみの中にあっても、決して奪われることのない確かな何かを持っている」という強い感銘に打たれる。
「私は患者さんたちから、人生において持つべき、『かけがえのないもの』を教えていただいた」と述懐しているが、その時の光景がまさにそれだったのだ。育った家庭環境、学んだ教育環境からキリスト教的素養は得ていたが、それが自分の魂を揺り動かすほどの力を持って迫ってきたのはこの時が初めてであった。
すぐに神父に指導を仰ぎ、キリストの教えの真髄に開眼すると直ちにカタリナの洗礼名で受洗した。
「空の空なるかな、みな、空なり。神を愛しこれに仕えるほかは、みな空なり」レゼー神父がよく口にしていた教えが、その後、彼女自身の生き方の指針となっていく。終生、座右の銘として大切にしていた聖句だ。
そうこうしているうちに3年の歳月が流れていったが一向にハンセン病の明らかな兆候が現れないばかりか皮膚の斑点が消えはじめ次第に元の肌が蘇ってきた。
疑念を抱いたレゼー神父の勧めにより当代の皮膚科の権威、東京大学の土肥慶蔵博士のもとで一週間にわたる精密検査を受けることになった。
その検査結果により、何とハンセン病ではないことが判明し、先の診断は誤診であった事実が明らかにされた。
その瞬間、一転、絶望を強いられてきた暗い隔離生活から解放されて、明るい未来への展望が開けることになった。その喜びは到底言葉などでは言い表す事のできないものであったに違いない。
御殿場への帰途、養父の家に立寄り診断書を見せて誤診の報告をすると家人たちは大喜びで即刻退院して帰宅するよう促したが、もうこの時には八重の決意は固まっていた。
レゼー神父も我が事のように喜んでくれた。そして神父の母国フランスでの新たな生活を強くすすめた。この頃フランス語は神父の導きで自在になっていた。誤診だったとはいえ、一度烙印を押された病名と入院していた病院に対する根深い社会的偏見や差別と向き合わなければならない現実を慮った神父の暖かい気遣いだった。
八重は神父の厚意に感謝し、その行く末に一時迷い思い悩むが、しかしその返事は、意表を突くものだった。
「私は、患者さんたちによって、決して奪われることのない『かけがえのないもの』を知ることができたのです。患者さんの傷が私に『一番大切なこと』を教えてくれたのです。私はこれから、看護婦として患者さんたちと一緒に生きていきたいと心から願っています。もし許されるならば ここに止って働きたいのです」
神父は大喜びで受け入れてくれた。八重の決心を一番喜んでくれたのは精神的支えとなっていた本田ミヨだった。
かくして、その決意を果たすため東京半蔵門の看護婦学校促成科に入学することになる。医師を目指す事も可能だったが神父が74歳と高齢であったので1日でも早く役に立ちたいとの熱い一念からだった。
1年後の大正12年(1923年)には晴れて看護婦の資格を取得して病院に戻り、初の看護婦として活動を開始した。恩師レゼー神父には昭和5年(1930年)、復生病院でその最期を見取るまで手足となって仕えた。
昭和6年(1931年)には心の支えだった本田ミヨも他界するが亡くなる前に息も絶え絶えのなかで「あなたは最後までここにいるのですよ」と八重に語りかけた。涙をこらえながら聞いたこの言葉を八重は深く胸に刻み、終生忘れることはなかった。
次の院長、岩下壮一神父にも献身的に仕えたが昭和15年(1940年)には急病に倒れた神父の死水を取ることになる。
その後太平洋戦争の混乱期を挟んで病院の管理運営は困窮を極めるが院長千葉大樹神父のもとで患者の生活を懸命に守り通した。昭和22年に至り病院の管理はカナダのクリスト・ロワ宣教修道女会に引き継がれることになり、これを機に施設、設備、スタッフの全面で大幅な改善が図られることになる。八重は婦長としてこの修道会の活動を影に日向に力の限り支えた。そして81歳で現役を退くまでの長年月にわたり社会の差別と偏見の中で、ただひたすら病者のため献身的に尽くした。その活動内容は、薬の調合、傷口の消毒、薬塗布、注射、膿で汚れたガーゼ、包帯の交換などの本来の治療業務にとどまらず炊事・食事、病衣や包帯の洗濯などの雑務はもとより、乏しい病院経営を助けるための畑仕事や義援金募集、経理事務まで、あらゆる分野にわたった。
それは地味ではあったが、まさに堅忍不抜の意志によって貫かれたものだった。生身の人間として疲労困憊して弱気になったり、大きな困難に打ち負かされそうになった時には「私は侍の子だから」と言って自らを鼓舞していたという。会津士魂の血脈を自覚し誇りとしていた心意気がうかがわれる。自分の確信した真理に対して誠心誠意尽くす、その姿は幕末期の会津藩の一貫した姿勢と機を一にする。
そこに「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」とのイエスの言葉に生涯を託した八重の真骨頂を見る思いがする。
「一粒の麦」は平成元年に91歳で復生病院において名誉婦長として生を終え、病院の共同墓地に眠る彼女直筆の墓碑銘でもある。
社会の片隅でハンセン病者と共に懸命に生きた一人の看護婦として晩年社会に高く評価され多くの栄誉に輝き、アメリカの週刊誌「ライフ」に「マザーテレサに続く日本の天使」と紹介されるなどテレビ新聞等のマスコミでも取り上げられ喧伝されたが、それらは果たして自身の本意にかなうものだったのだろうか。
「御摂理のままにと思い忍びきぬ なべては深く胸に包みて」
この句に込められた思いこそが真情の吐露であり切なる願いであったに違いない。
そして患者達から「母にもまさる母」と慕われたことが八重にとっては何よりの誉れだったのではないだろうか。
会津の地に足を運ぶことはなかった八重だが会津に対する思い入れはひとしおだったという。最晩年病院を訪れる人々の中に会津の人がいると懐かしげに親しく声をかけていたというエピソードも残っている。
参考文献
○ 牧野登 編著『人間の碑 ?井深八重への誘い』井深八重 顕彰記念会
○ 中村剛『井深八重の生涯に学ぶ』あいり出版
○ 小坂井澄『ライと涙とマリア様』図書出版社
○ 井深八重『道を来て』-----神山復生病院90周年記念冊子『踏蹟』
○ 井深八重『信仰による愛の御業につれづれの(私のなかの歴史)』----月刊『福 祉』61-5
○ 星倭文子 『会津が生んだ聖母 井深八重』 歴史春秋出版
イエス・キリストに対する全き信服と他者愛に裏打ちされた自己犠牲と忍苦に貫かれたその生涯は地味なもので華やかさとは無縁であった。晩年こそ、その活動が認められヨハネ23世教皇からの聖十字勲章をはじめ国際赤十字からの看護婦にとっては最高の名誉とされるフローレンス・ナイチンゲール記章、等々の栄誉に浴したが聖句「一粒の種」に一生を托した八重の目には、それらは果たして、どれ程の価値に映じていたのだろうか。
八重は明治30年(1897年)に台湾の台北市で生を受けた。 三歳年下の弟は生後一カ月で夭逝している。 父・井深彦三郎は大陸浪人の流れをくみ軍の中国大陸侵攻関連に没頭していて家庭を顧みる暇もない人だったという。やがて一家は東京に転住することになるが七歳のときに両親は破局を迎え離婚したため、母とは離別する。父は再婚したものの幼少の娘は手に余ったのだろう、程なくして祖母八代に預けられたが、生活の場は父の長兄、井深梶之助の家庭であった。そこでは家族の一員として大切に慈しみ育てられた。
養父、井深梶之助は日本基督教会の牧師で教会の指導者の一人として活躍したが当時は自分達が創設した明治学院の二代目総理を務めていた。
そもそも井深の家系は信濃、高遠藩保科家重臣から発し藩祖、保科正之の家老として会津に入った茂右衛門重光が会津での元祖となる。重光の男子3人は分家するが、幕末には更に7分家となっていた。
梶之助、彦三郎兄弟の井深家は重光の三男、清大夫重堅から始まる家系である。
兄弟の父、宅右衛門は藩主が京都守護職の任に在った時には会津藩軍事奉行として京にいたが慶応2年(1866年)会津へ戻った際には学校奉行に任ぜられ藩校・日新館館長として藩士子弟の教育にあたった。戊辰戦争では日新館の師弟で編成された第二遊撃隊頭として越後の会津藩飛び地の守備にあたったが敵軍が会津城下に侵攻したため、やむなく撤退して籠城戦に加わり、側用人として藩主父子の傍らで仕えた。
藩の降服後は藩主・松平喜徳に従い江戸で謹慎生活を送ったが斗南藩再興時には五戸に移住させられる等、辛酸をなめることとなるが、その後明治6年(1873年)には会津に戻り、若松区長、田島村戸長等を勤めた。
ついでに記せば宅右衛門の妻、兄弟の母(八重の祖母)八代は西郷瀬母近悳の実妹である。
長男だった梶之助は戊辰戦争時15歳であったが年少で白虎隊には入れず、父の後を追って越後に向い一緒に戦い、その後同様に籠城して松平容保の側で小姓として戦った。開城降伏後は藩士たちと共に猪苗代で謹慎生活を送るが明治2年 (1868年)には老幼女子の一団に配され、河辺郡水谷地村(今の喜多方市)で親族と共同生活を送る。同年4月、塩川町に再興された藩校日新館の仮舎で次男の勝治と共に学ぶが10月に日新館長から洋学修業辞令を受けて上京し藩の洋学塾に入る。しかし藩の財政事情に左右され二転三転することになるが明治4年(1871年)横浜で、あることが契機になり英語を学ぶようになる。その時出会ったアメリカ人宣教師ブラウンの影響により、その後キリスト教の道を一途に歩むことになる。
八重の父、彦三郎は三男で他の分家、井深守之進の養子となったので長兄とは別の命運をたどった。白虎隊士茂太郎は盛之進の実子なので義兄になる。戊辰戦争時は2歳であったが敗戦後は一族と共に斗南配流の憂き目に会い、極貧の中で幼少期を過ごした。長じて18・9歳の頃上京して英語を学び明治19年(1886年)に妻の兄、荒尾精と意気投合して中国に渡った。日清戦争、日露戦争では軍務に従事したが、後に清政府の顧問として満州開発に携わったりもしている。他に軍の秘密工作員として活動したともいわれている。明治45年(1912年)には衆議院議員総選挙に福島県から出馬し当選しているが大正5年(1916年)に北京で客死した。八重は女癖の悪かった父を毛嫌いしていた。
なお生母はその後、再婚し三男一女の母となり昭和29年(1954年)に京都で没しているが早世したとしか知らされていなかった八重は生前この事実を知ることはなかった。
八重は小学校卒業まで明治学院の構内にあった梶之助の家で過ごすがこの時、早世した彼の妻に代わり養育してくれたのが井深本家当主・常七郎の妻、登世であった。新島八重等と共に籠城して負傷者の看護や弾丸作り、炊き出し等にあたった人で、自刃した西郷一家の女性達の遺骨を集めて善龍寺に運び弔ったことでも知られている。八重は彼女から会津女性魂の甚大な影響を受けており二人の関係は登世が亡くなる 昭和19年( 1944年)まで続いた。また祖母八代や養父梶之助からも会津士魂の精髄を度々聞かされていたであろうことは想像に難くない。
小学卒後の明治43年(1910年)には同志社女学校普通学部に入学させられたが大正7年(1918年)に専門学部英文科を卒業するまでの8年間は寄宿舎生活を送っている。ここでのキリスト教的気風に満ちた生活が自分の精神的土壌を培ってくれたと後年、彼女自身述べている。
同志社女学校入学の背景には養父梶之助と新島譲は親交があり、また新島八重と旧知であったことや登世が山本覚馬、新島八重の兄妹と交わりがあったことなどが推測される。恐らく彼女自身も新島八重の知己を得ていたのではないだろうか。
英文科を終えると長崎の県立高等女学校の英語教師に就き、充実した新しい人生のスタートをきった。しかし、その二年目、腕に湿疹状のものが出て消えないという症状が現れ診てくれた医者のすすめもあって福岡の大学病院で精密検査を受けることになった。
偶々その時教授が不在で代診の医師が診察したが「ハンセン病の疑い、要再診」という診断結果は本人にではなく養父に伝えられた。
ハンセン病は当時「癩病」と呼ばれ、肉体を蝕む伝染性の不治の業病として人々に恐れられ忌み嫌われており、家族が発病すれば遺伝病との説もあったので、ひたすら隠蔽し世間から隔絶するのが常だった。
八重は再診を受けることなく直ちに養父および伯母によって静岡県御殿場にある救癩施設、神山復生病院に連れて行かれ隔離入院させられた。その上、井深の籍も抜かれたので堀清子と改名した。22歳の時のことであった。
神山復生病院はパリ外国宣教会のテストウィード神父によって明治22年(1889年)に創られた我国では初の救癩施設であり、当時世間から見捨てられていたハンセン病者を救護するために設けられた。創設時は病院とは名ばかりの貧弱な施設だったようだ。
因みにパリ外国宣教会は徳川幕府の厳しい弾圧で途絶したカトリックの明治以降の再布教に尽力し、再興に多大な貢献をした宣教会でパリに本部があり偉大な宣教師を多数輩出している。現在も全世界で活躍しており国内では北海道(札幌、函館等)をはじめ各地の教会で宣教、司牧の任に当たっている。明治大正期には会津でも大いに活躍し多くの実績を残している。
病名を知らされることもなく入院させられた先では、顔面が蝕まれ崩れている人や鼻や手足の指が腐食し欠損してしまった人などの姿が、いやでも目についた。
そこは思わず目を背けたくなるような症状を抱えて、塗炭の苦しみの中で死を待っているような癩病者達が住まう凄惨な場所だったのだ。
「見るのも恐ろしく、怖くて近づけない」というのが患者たちに対する最初の偽らざる気持だったという。
そこではフランス人のドルワール・ド・レゼー神父が院長として孤軍奮闘していた。癩病に対する差別と偏見のため看護婦のなり手は全くなく、症状の軽い患者が、重症者の世話をするなどしてお互いに支えあって生活しているというのが実情だった。
入院後、初めて病名を知った八重は絶望のどん底に突き落とされた。その衝撃と恐怖のあまり幾夜も泣き明かし、度々自殺を考えたという。後年、彼女自身「一生の間に流す涙を流し尽くした」と当時の様子を懐古している。
養父は亡父が残した八重の遺産の一部を病院に寄付し病院敷地内に新しい一軒家を建てる工面をしてくれた。
家が完成する頃には、ようやく奈落の苦しみから立ち直り、どうにか自分を取り戻すことができるようになっていた。そこで目にしたのは笑顔を絶やさず感染の恐れなどまるで気にかけることもないように素手で病者の患部に触れて治療に当たるレゼー神父の献身的な姿であった。と同時に神父に接する患者達の明るい表情と一日一日を大切に生き抜いている姿を目の当たりにする。希望を絶たれ死の影に怯えるはずの人たちがお互いに寄り添い助け合いながら粛々と生きている姿を眼前にして彼女の心中には大きな変化が訪れる。またこのころ修道女の身で罹患し、次第に病状が悪化していた本多ミヨに出会い、その言動から深い感化を受けている。
英語が堪能でオルガンを弾けることが神父に知られるにおよび秘書としての仕事も与えられた。このようにして次第に自分の生きる方向にも一条の光明が見出せるようになっていった。そんなある日曜の朝、神父のすすめで初めてミサ聖祭に参加する。そこで彼女は生涯忘れることのできない場面に出くわすのだ。
絶望の淵に沈んでいるはずの患者一人一人が、そこでは顔を輝かせて聖歌をうたって神を賛え、感謝の祈りをささげているではないか。夢想だにしなかった感動的な光景に衝撃を受けると同時に「ここにいる患者さんたちは、すべてのものを失っても、またどんな苦しみの中にあっても、決して奪われることのない確かな何かを持っている」という強い感銘に打たれる。
「私は患者さんたちから、人生において持つべき、『かけがえのないもの』を教えていただいた」と述懐しているが、その時の光景がまさにそれだったのだ。育った家庭環境、学んだ教育環境からキリスト教的素養は得ていたが、それが自分の魂を揺り動かすほどの力を持って迫ってきたのはこの時が初めてであった。
すぐに神父に指導を仰ぎ、キリストの教えの真髄に開眼すると直ちにカタリナの洗礼名で受洗した。
「空の空なるかな、みな、空なり。神を愛しこれに仕えるほかは、みな空なり」レゼー神父がよく口にしていた教えが、その後、彼女自身の生き方の指針となっていく。終生、座右の銘として大切にしていた聖句だ。
そうこうしているうちに3年の歳月が流れていったが一向にハンセン病の明らかな兆候が現れないばかりか皮膚の斑点が消えはじめ次第に元の肌が蘇ってきた。
疑念を抱いたレゼー神父の勧めにより当代の皮膚科の権威、東京大学の土肥慶蔵博士のもとで一週間にわたる精密検査を受けることになった。
その検査結果により、何とハンセン病ではないことが判明し、先の診断は誤診であった事実が明らかにされた。
その瞬間、一転、絶望を強いられてきた暗い隔離生活から解放されて、明るい未来への展望が開けることになった。その喜びは到底言葉などでは言い表す事のできないものであったに違いない。
御殿場への帰途、養父の家に立寄り診断書を見せて誤診の報告をすると家人たちは大喜びで即刻退院して帰宅するよう促したが、もうこの時には八重の決意は固まっていた。
レゼー神父も我が事のように喜んでくれた。そして神父の母国フランスでの新たな生活を強くすすめた。この頃フランス語は神父の導きで自在になっていた。誤診だったとはいえ、一度烙印を押された病名と入院していた病院に対する根深い社会的偏見や差別と向き合わなければならない現実を慮った神父の暖かい気遣いだった。
八重は神父の厚意に感謝し、その行く末に一時迷い思い悩むが、しかしその返事は、意表を突くものだった。
「私は、患者さんたちによって、決して奪われることのない『かけがえのないもの』を知ることができたのです。患者さんの傷が私に『一番大切なこと』を教えてくれたのです。私はこれから、看護婦として患者さんたちと一緒に生きていきたいと心から願っています。もし許されるならば ここに止って働きたいのです」
神父は大喜びで受け入れてくれた。八重の決心を一番喜んでくれたのは精神的支えとなっていた本田ミヨだった。
かくして、その決意を果たすため東京半蔵門の看護婦学校促成科に入学することになる。医師を目指す事も可能だったが神父が74歳と高齢であったので1日でも早く役に立ちたいとの熱い一念からだった。
1年後の大正12年(1923年)には晴れて看護婦の資格を取得して病院に戻り、初の看護婦として活動を開始した。恩師レゼー神父には昭和5年(1930年)、復生病院でその最期を見取るまで手足となって仕えた。
昭和6年(1931年)には心の支えだった本田ミヨも他界するが亡くなる前に息も絶え絶えのなかで「あなたは最後までここにいるのですよ」と八重に語りかけた。涙をこらえながら聞いたこの言葉を八重は深く胸に刻み、終生忘れることはなかった。
次の院長、岩下壮一神父にも献身的に仕えたが昭和15年(1940年)には急病に倒れた神父の死水を取ることになる。
その後太平洋戦争の混乱期を挟んで病院の管理運営は困窮を極めるが院長千葉大樹神父のもとで患者の生活を懸命に守り通した。昭和22年に至り病院の管理はカナダのクリスト・ロワ宣教修道女会に引き継がれることになり、これを機に施設、設備、スタッフの全面で大幅な改善が図られることになる。八重は婦長としてこの修道会の活動を影に日向に力の限り支えた。そして81歳で現役を退くまでの長年月にわたり社会の差別と偏見の中で、ただひたすら病者のため献身的に尽くした。その活動内容は、薬の調合、傷口の消毒、薬塗布、注射、膿で汚れたガーゼ、包帯の交換などの本来の治療業務にとどまらず炊事・食事、病衣や包帯の洗濯などの雑務はもとより、乏しい病院経営を助けるための畑仕事や義援金募集、経理事務まで、あらゆる分野にわたった。
それは地味ではあったが、まさに堅忍不抜の意志によって貫かれたものだった。生身の人間として疲労困憊して弱気になったり、大きな困難に打ち負かされそうになった時には「私は侍の子だから」と言って自らを鼓舞していたという。会津士魂の血脈を自覚し誇りとしていた心意気がうかがわれる。自分の確信した真理に対して誠心誠意尽くす、その姿は幕末期の会津藩の一貫した姿勢と機を一にする。
そこに「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」とのイエスの言葉に生涯を託した八重の真骨頂を見る思いがする。
「一粒の麦」は平成元年に91歳で復生病院において名誉婦長として生を終え、病院の共同墓地に眠る彼女直筆の墓碑銘でもある。
社会の片隅でハンセン病者と共に懸命に生きた一人の看護婦として晩年社会に高く評価され多くの栄誉に輝き、アメリカの週刊誌「ライフ」に「マザーテレサに続く日本の天使」と紹介されるなどテレビ新聞等のマスコミでも取り上げられ喧伝されたが、それらは果たして自身の本意にかなうものだったのだろうか。
「御摂理のままにと思い忍びきぬ なべては深く胸に包みて」
この句に込められた思いこそが真情の吐露であり切なる願いであったに違いない。
そして患者達から「母にもまさる母」と慕われたことが八重にとっては何よりの誉れだったのではないだろうか。
会津の地に足を運ぶことはなかった八重だが会津に対する思い入れはひとしおだったという。最晩年病院を訪れる人々の中に会津の人がいると懐かしげに親しく声をかけていたというエピソードも残っている。
参考文献
○ 牧野登 編著『人間の碑 ?井深八重への誘い』井深八重 顕彰記念会
○ 中村剛『井深八重の生涯に学ぶ』あいり出版
○ 小坂井澄『ライと涙とマリア様』図書出版社
○ 井深八重『道を来て』-----神山復生病院90周年記念冊子『踏蹟』
○ 井深八重『信仰による愛の御業につれづれの(私のなかの歴史)』----月刊『福 祉』61-5
○ 星倭文子 『会津が生んだ聖母 井深八重』 歴史春秋出版