
kan-haru blog 2010 稗田神社社殿に並んで建つ薬祖・稲荷・三十神社末社
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稗田神社御祭神
新編武蔵風土記稿によると稗田神社は、東海道の西の方に寂しさがただようひとむれの木立が茂り、かたはらに小さな池と水路が廻る面積が2115平方メートルの境内に、本殿(1.8mに2.7m)と拝殿(4.5mに3.6m)があり、社殿前の数メートル先に柱間隔が3.6メートルの石鳥居が建つ北蒲田村の鎮守様です。この石鳥居はその1に記述の通り、現在は大田区指定の有形文化財として神社正門に移動して、その姿を見せています。

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稗田神社は本来蒲田八幡社であり、行墓(668-749) 菩薩作が彫った木造彫刻の天照、八幡、春日の三神体を祭神として祀ってあります。行墓の木造は高さが82cmの立像で、天照太神は鉾を逆に杖つきて巌の上の立姿であり、八幡大神(誉田別命)は左の御手に弓をとり、右の御手にて御はかせの柄に手をかけた容姿です。春日大神の像は、慶長年間に新宿村が北蒲田村より分村した時に、稗田神社に勧請して新宿村鎮守として新宿八幡社を創建した際に、春日大明神の像を分けて八幡社に祀られました。新宿八幡社は、1949年(昭和24年)8月に蒲田八幡神社(「風景・風物誌 京急高架化沿線の春 5月開通の上り線高架橋沿線の桜を歩く(蒲田八幡神社)第1回」参照)に改称されました。
この鎌倉時代以前の祭神の三神体像は、第二次世界大戦の戦災により天照、八幡像は稗田神社で、春日像は明治維新の神仏分離に際して遷された旧別当の妙安寺で、それぞれが失われました。
新編武蔵風土記稿の時代の稗田神社の例祭日は、年々正月15日に神楽を奏して祭るとありますが、現在では9月15日近くの土・日曜日に行われ、今年は同11、12日が例祭でした。

例祭準備の稗田神社(左上・中上・右上・左下・中下・右下写真拡大)
現在の御祭神は、その1に記述の通り天照、八幡、春日の三神体と共に武内宿禰命 荒木田襲津彦命の二神体が相殿しており、境内には天祖神社(1965年[昭和40年]10月16日建立)と山野神社(1915年[大正4年] 9月15日建立)の合祀の碑が建てられています。

天祖神社・山野神社の合祀の碑(左:天祖神社合祀の碑、中:山野神社合祀の碑正面、右:同裏面)
稗田神社末社
稗田神社末社の小祠の創建は古く、江戸時代の1683年(天和3年)で、新編武蔵風土記稿が書かれた1830年には、三祠とも末社は建てられており古い歴史の末社です。
しかし、三社の末社は1945年4月の世界大戦で焼失のため、稗田神社の社殿が再建された1954年(昭和39年)から暫く後の1988年(昭和63年)に、現在の末社の新社殿が再建造営されました。

稗田神社社殿に並んで建つ薬祖・稲荷・三十神社の末社(左・中・右写真拡大)
末社の最奥に並ぶ薬祖神社は、祭神には少彦名命と神農大神が祀られ、稗田神社の地主神の元宮と云われています。

薬祖神社(左・中・右写真拡大)
真ん中の末社の稲荷神社には、宇迦之御魂神が祀られ、昔は蒲田の農業の神として、現在は商売繁盛の神として参拝者が集まります。

稲荷神社(左・中・右写真拡大)
手前の末社の三十神社には、昔のこの地は法華信仰が盛んな地であり、法華神道の教理の三十柱の神様が祀られています。

三十番神社(左・中・右写真拡大)
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