
kan-haru blog 2009
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東京に長年住んでおり上野公園の不忍池にはよく行ますが、今までに蓮の開花時期の早朝に訪れたことはありませんでした。
蓮は仏教に関連する花で、お盆の時期の日本人には馴染みの深い花です。今年は、開花がやや遅く満開時期は8月に入ってからの様でしたが、7月30日の朝不忍池に蓮を観に行ってきました。

上野公園不忍池
不忍池の蓮の花
朝8時に不忍池に着くと、池の傍で開催の恒例の骨董市もまだ開店準備前で人ひとりおりませんが、蓮の花を見に来たかなり人がカメラを抱えて蓮の花の撮影に勤しんでいました。蓮は弁財天の南側の池一面が緑の蓮の葉で埋まり、北側の池の蓮は東岸側に多く植えられています。

不忍池航空写真(拡大地図goo参照)
不忍池南岸から北を見ると、まるで弁天堂が蓮の上に浮いているように見えます。
弁天島の南側の不忍池の蓮の花の開花は、ちらほらと花が開き始めた状態で見頃はこれからの様に見られました。
蓮の葉が勢いよく育っているので、蓮の花は葉の隙間から遠慮げに茎を伸ばして咲いているように見えます。蓮の花は始めて近くで見ましたが、不忍池の蓮の花はピンク色の花です。

一面蓮の葉が茂る不忍池(左・中・右写真拡大)
不忍池の弁天島は、1625年(寛永2年)に、天海僧正は比叡山延暦寺になぞらえて寛永寺を創建しました。不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島に因んで池中に中之島(弁天島)を築き、のちに竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請し、弁天堂を建立しました(「風景・風物詩 初詣風物詩 上野五條天神社、不忍池弁天堂と飯田橋東京大神宮」参照)。
弁天堂の参道には、「不忍池」大碑が建てられており裏側に不忍池の由来が書かれてあります。

不忍池周辺(左:不忍池傍の恒例の骨董市会場、中:不忍池弁天、右:「不忍池」大碑再掲090104撮影)
不忍池の歴史
不忍池は、上野観光連盟が建てた「不忍池」大碑の裏側に書かれている由来を抜粋すると、池は「忍ヶ丘」(しのぶがおか)に連なり都心一の山水美を誇り、江戸時代以来大火・大地震・大戦などの災禍が起こるたびに避難場所として都民に慕われてきました。大昔に深く食い込んでいた東京湾の入江のその一部が取り残されて、西暦紀元前数世紀頃から池となり、それ以来「不忍池」の名で呼ばれるようになったと云われています。
1943年の大戦の激動期には、食糧増産のため池の一部に稲が植えられ不忍田圃の異名がついたこともありました。また、この8月15日には64年目の終戦日を迎えた戦後の食糧難の時代には、池の鯉よりも主食のお米が足りなくて少しでもお米の生産にと、不忍池を田園とした悲しい時代を乗り越えてきた歴史があります。

昭和22年不忍池の田園航空写真(goo地図提供)
弁天堂北側の不忍池の蓮は見頃時期
不忍池南の蓮の花は、ちらほらと開花したところでしたが、弁天堂北側の不忍池の蓮は見頃時期を迎えておりました。幾多の歴史を乗り越えて、弁天堂近くの不忍池の蓮の花は満開に近い状態で咲き誇っていました。

見頃を迎えて開花した蓮の花1(左・中・右写真拡大)
始めて見る蓮の花に感動して心が安らぎ、上野駅構内で朝食をとり帰路に着きました。

見頃を迎えて開花した蓮の花2(左・中・右写真拡大)
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