kan-haru blog 2007

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玉音放送
62年前の1945年8月15日も、朝からじりじりと照りつける暑さの厳しい最中、疎開先の校庭で正午からの昭和天皇による玉音放送を聞くために召集され、整列したことは決して忘れることが出来ない出来事の記憶でした。
前のブログでも記述しましたが、当時のラジオの性能は、校庭の隅々まで音声が届くものでは無く、前列中央の一部の者しか聞き取れないものでした。放送が終了して、校長先生の「解散」の号令を聞き、何があったのかは帰宅して家に着くまでは戦争終了は分からなかったのです。

当日は朝から「賢き辺りにあっては本日正午から重大発表を行なうので、必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされていて、このラジオ放送は国民にとって敗戦の象徴ともいうべき出来事であり大きな衝撃でしたが、当時国民(小学)6年生にとっては事の重大さの理解が深く及ぶものでは無い年齢でした。
疎開先では、米軍の艦載機が飛んで来て、人が動くと機銃掃射で攻撃される日々を送っておりましたが、戦争が終わって機銃掃射も受けなくて済むことと、夜は灯火管制で黒い布で覆っていた照明が明るくなったことが嬉しく感じたことでした。

終戦直後の生活記録
終戦により秋には大森町に引き上げて、戦後生活を送ることになりましたが、悲疎開先での悲惨な生活は終止符をうちましたが、戦後の欠乏生活もそれ以上に大変なものでした。
1945年(昭和20年)代の終戦直後の生活記録は、現在殆ど無いのが現状です。
若山武義氏の大戦の空襲戦災体験から始まる手記は、終戦翌年の11月末まで続き、大変貴重な記録です。
今回から、戦後編の第3編 我等の生活談義を掲載して行きます。是非、周囲の皆様にもお伝え頂き、このような時代もあったことを知って頂けたらと思います。

掲載中の若山武義氏手記
[戦中編 1944年11月~1945年8月]
1 大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第1回第11回)
2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回第7回)
3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1回第9回) 
[戦後編 1945年9月~1946年11月]
4 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1回第8回
5 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第1回第6回
6 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第1回~


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第1回

政府の配給だけでは生きてゆけぬ
悲しい哉、我々は武士の子ではない、「おなかがすいてもひもじゅうない」とヤセがまんは出来んし、「武士は喰はねど高楊枝」と、庶民にはそのようなき持ちなどあろう筈がない。
「このガキ、なんでめしくわないんだ」と、どなわれどなわれ育って来た今、たべ盛りの子供に「あんまりたべてくれるな」と制限せざるを得ぬ破目なのである。

我々階級は戦争以来、インフレと食料不足に苦しめられ通しである。殊に昨年終戦後、泣きつらに蜂の空前の凶作、満州、朝鮮、台湾を失った今日、主食の不足二千万石、一千万人の餓死者が出るとおどかされ、浅ましくも生きんが為め食物の収奪に無我夢中、昨日の相場は、今日の値段ではない。金のある連中はあるにまかせて大仕掛け、ない者はないで七置き八おき、物交やりくり算段で買いだめしたのである。其の為め、たださえ混雑の人殺し電車、汽車。昨秋の千葉、埼玉の冠水芋買出しの情勢を、為政者はなんと見たか、説明して欲しいものである。

インフレではない、物のキキンであるとは石橋さんの説明である。勿論たしかに其の通りである。金のキセルもつめてのむ莨がなければ用をなさぬ。乞食が小判をだいて餓死するのであるから、まさしく物のキキンである事は其の通りである。生産の昂揚さえせばインフレは消滅する。故に生産振興の生きた金ならどしどし使う。インフレはインフレで克服する、毒には毒を以ってする筆法である。

今茲に腹ペコの我々は、高遠なる論議は其の道の専門家におまかせする。ただ、戦後このインフレの怒涛のなかを、いかに生きて来たか、亦今後一層苦しかるべき生活を、如何に生き抜くべきかを考えるより外に手はないのである。率直に結論を申せば
  政府の配給だけでは生きてゆけぬ
問題はただこれ丈なのである。

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