
kan-haru blog 2007
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養願寺と虚空蔵横丁
大変と古い履物店の丸屋(地図、案内図2参照)から旧東海道を南に進むと、養願寺に入る「虚空蔵横丁」に出ますので、その横丁を養願寺に向います。
養願寺(品川区北品川2-3-12)は、横町の道に面してすぐ右の本堂に通じており、山門も境内と云える場所もありません。1299年の開創と伝えられており、品川有形文化財になっている、銅造阿弥陀如来立像(1192年)、木造不動三尊像(1658年)が安置されてます。本堂に続いて「虚空蔵堂」があり、「品川の虚空蔵さま」と呼ばれて親しまれてきました。
虚空蔵尊(養願寺)は、東海七福神の布袋さまで、毎年4月7日と11月7日の大祭に開帳され、毎月7の付く日には縁日が開かれます。

養願寺本堂 本堂提灯 仏像説明板

虚空蔵横丁説明板 虚空蔵横丁道標
一心寺
一心寺(品川区北品川2-4-18) は、養願寺と顔を合わせる形になっており、養願寺から横丁を30mほど戻った旧東海道の道を挟んだ場所にある、成田山分身の不動明王が本尊で、「品川の不動さま」として知られた寺です。
1854年(徳安政2年)に大老職の井伊直弼公が縁起により、江戸台場の中心である品川宿において"鎮護日本" 、 "開国条約"、"宿場町民の繁栄安泰"の願いと霊験の悟りを元に開山され、町民代表によって建立されたと云われております。本堂は1884年(明治17年)に火事焼失しましたが、再建されて古くから延命・商売の神様と信仰されておりました。

一心寺 一心寺本堂 一心寺由来
以前は、補陀落山 海晏寺(品川区南品川5-16-22)が江戸三十三観音札所でしたが、平成4年から一心寺が札所となりました。

江戸三十三観音札所
竹屋横町と正徳寺
一心寺をから南に進むとすぐ「竹屋横町」で、目黒川本流(現在のなぎさ通り)に至る横町で、1800年ごろ品川宿を描いた『東海道分間延絵図』に記載がありますが、地名の由来については不明です。

竹屋横町説明版 正徳寺 正徳寺山門
正徳寺(品川区北品川2-7-26)には、竹屋横町から斜め先の参道を進むと山門で、入ると本堂が目に付き、境内には大きなイチョウの木があります。
浄土真宗・大谷派で1296年に僧 春応が開創したと伝えられており、幕末の住職の日記55册が保存されております。
東海道品川宿本陣跡
正徳寺参道を旧東海道に戻り、南に進むと東海道品川宿跡の聖跡公園です。

東海道品川宿本陣跡説明版 品川宿本陣跡石標 本陣跡・聖跡公園説明版
品川宿本陣跡(品川区北品川2-7-21)は、江戸時代に大名が宿泊する本陣を置いたところです。
幕府は、1635年(寛永12年)の武家諸法度で参勤交代を義務づけました。毎年下向する勅使・院使、あるいは将軍名代の大名や高家に、公用の旅行者などが加わり東海道の各宿を通ったので、品川宿は江戸に一番近い宿場なので、通行量が最も多かったところです。
・聖跡公園
1868年(慶応4年)に江戸を東京と改称する詔が出て、江戸は東京と定められ、改元が行われて明治元年となりました。改元により、天皇の京都から東京への行幸の第一回目が行なわれました。

聖跡公園入り口 聖跡公園 御聖蹟説明版
総勢3300人余りの大行列は、9月20日に京都を出発し、10月12日に川崎宿で昼食をとり、大森梅屋敷(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園」参照)で休息後、午後3時頃に品川宿本陣に到着し、入り口に「行在所」と書いた高札を建てて宿泊しました。
翌年、天皇は再び東幸し、3月27日に品川宿に宿泊、東京城を改めて皇城と定め、東京遷都が行なわれ、2回の天皇の東幸によって、品川宿は周辺の村々とともに新しい時代の夜明けを実感しました。(品川歴史館から引用)
聖跡公園を後にして、北馬場通りを西に進み第一京浜国道に突き当たると、対面は大神輿の渡御が行われた品川神社(「風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭(その1~2)参照」)です。
品川神社の「品川富士」は、1869年(明治2年)に品川宿内の富士信仰の講が築いたもので、江戸時代は品川沖の江戸湾から房州半島を一望する景勝地だったのです。
品川神社の前は、京浜急行電鉄の「新馬場駅」の北馬場口です。新馬場駅は、昔「北馬場駅」と「南馬場駅」の2つの駅を合体したものです。
旧の南馬場駅から青物横町にかけての、目黒川南岸は「南品川宿」として栄えておりました。第2編として、南品川宿編の掲載を予定しております。
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