kan-haru blog 2007

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日本国憲法
日本の現憲法が成立したのは、1946年11月3日で、施行日は翌47年5月3日です。
当時の政府は、ポツダム宣言の要求に従うには、基本的人権の尊重をより強化するよう憲法を改正しなければダメだという程度の認識は持っておりました。
GHQは、憲法改正を必要としながらも、改正は日本のイニシアティブで行われるべきだと考えており、1945年10月、憲法改正、人権確保のための五大改革を当時の幣原喜重郎首相に要求し、同首相は松本烝治国務大臣を長とする憲法問題調査委員会を設置し、改正案づくりにとりかかりました。

1946年2月1日、毎日新聞が憲法問題調査委員会のつくった草案を掲載し、それを見たGHQは、予想とはかけかけ離れて天皇を主権者とし明治憲法と殆ど変わらないものなので、日本国政府につくらせるわけにはいかないと決断しました。
2月3日、民生局長のホイットニー准将に象徴天皇、戦争放棄、封建制は意思の三原則に基づくGHQ草案をつくるよう指示し、秘密裏のに作業が進められました。
何も知らない日本政府は2月8日、改正案をGHQに提出しましたが、これを握り潰して、13日に日本政府に政府案の拒否を告げ、同時にホイットニー草案が渡されました。これが現在の日本国憲法となったのです。

日本政府は絶対権力者であるGHQの指示に従うしか方法はなく、GHQ草案をを日本文に訳し、日本が自主的に作成した形をとって、3月6日に公表したのです。新憲法制定の手続きは、大日本帝国憲法の改正という形式を踏んで、枢密院に諮詢し可決、次に帝国議会に提出し、若干の修正後、衆議院、貴族院で可決、11月3日に公布されました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第3回

 無智な山奥の老婆は
天子さまも戦さに負けておいたわしい。東條の奴らにくたらしいたらないぞ、無智と云われようが、無批判と罵られようが、我々庶民は戦争に対する責任は絶対に陛下にはないと信ずるものである。
日本国民を欺瞞し、之をして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯させしめたる者の権力及勢力

即ち、かっての我が国の指導者である現在の戦争犯罪人の一連を心から憎まざるを得ぬ。

 日露戦争の時
  明治天皇御製
   四方の海みなはらからと思ふ世に
     など波風のたちさわくらむ

この御製の翻訳を読んだ当時のアメリカ大統領閣下は、明治天皇は真の平和愛好者であるとし、日露和平に協力せられたる由に聞く。
今回の戦争開始の御前会議に、今上陛下は右御製を御読み上げになり
 朕は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めて居るものである。
と宣せ給うた旨、故近衛公の手記にある。
近く憲法も改正される今日、こうした特権階級、虎の威を借る柧共の再び生まぬように天皇制の改正は出来ぬものであろうか。

これに対し、全国民の真意を吐露せるものとして、南原帝大総長は、本年の天長節式典で「天長節に際して」として大要左のような講演をせられたのである。
  
 ○悲壮なる御命運
  我が国歴史始まって以来、今上陛下ほど最も多事多難な時代に、最も悲壮な運命を担われた方はないと申してypかろう。
  御即位後、幾多の不祥事件、五・一五、二・二六等重大なる事件、更に満州事変、支那事変、そうして、遂に太平洋戦争に突入したのである。
  一個の人として、何よりも平和を愛せられ、立憲国の君主としては国民の意志の総てを尊重せられ、およそ独裁あるいは英雄的な王者型ではあらせられぬこの天皇の時代に、この重大なる戦乱の起こった事は、何としても日本民族の悲劇的な運命と云わねばならぬ。
 天皇の英断が、なぜこうした事件を止めることが出来なかったと云う嘆声を発する者もあるが、あの專暴の限りを尽くした軍閥、これに迎合した超国家主義者の力の前に、重臣等が之を阻止し得ず、歴代の内閣が却って之を支持してこれに参加し、国民の唯一の代表機関たる議会が付和雷同し、言論機関迄がこれを謳歌しておるその中で、この事を天皇に要望するのは、不可能を要求し奉ることと同じ事である。

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