kan-haru blog 2007

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私の戦後
私が太平洋戦争の終戦(1945年8月15日)を迎えたのは、若山武義氏の戦災日誌(手記)連載開始のブログ解説(「大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)」参照)などに記述の通り、小学(当時の国民学校)の6年生であり遠い親類の栃木県の農家に縁故疎開先でした。学校は夏休み中で、15日の昼に校庭に集まるようにとの召集がかかり、朝礼台のラジオを前に全員が整列して放送を聞きましたが、小型のラジオのため音声が届かず、なんの放送かも分からないまま、解散となり家に戻りました。

当時のラジオは、真空管式の家庭用の四級(並四と呼ばれていた)かせいぜい五~六級までのものしか一般には行渡っておりませんで、電波の伝播も良好でなく雑音も多いため、ラジオ直前にいる20人程度にしか聞こえない代物でした。
終戦を国民に知らせる8月15日の天皇陛下の玉音放送は、14日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決定し、大東亜戦争終結の詔書を発布され、これを昭和天皇の肉声によって朗読したものを、録音して15日正午に放送したものです。
玉音放送についての若山武義氏の手記は、「大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)」に掲載してありますので、ご参照下さい。

東京に戻っての敗戦直後生活環境
資源も資力もない日本が無知無謀な戦争に突入したため、国民一億が欠乏の危機を迎えることとなり、とにかく食べる物が無く生きるのが精一杯の時代でした。
戦争が終結したので、生活の基盤造りをしていくため、東京には夏休みの間に引き上げてきました。東京に引き上げの国鉄に乗るのも大変で、とにかく品川から京浜電鉄に乗り換え学校裏(現平和島)駅で下車して周囲を眺めると、南北に走る京浜電鉄と京浜国道の沿線にかけては、幅がおよそ500mにわたり入新井2丁目付近から蒲田・六郷までベルト状にバラック建て一つも無く焼け野原(1945年9月撮影の米国陸軍空中写真大森町周辺戦災加工地図(単に地図と称す)、1947年7月9日撮影の大森町上空の航空写真(国土地理院)、六郷橋から第一京浜国道の焼野原参照)で、その悲惨な風景を見て呆然自失で言葉は何も出ませんでした。取り合えずは、元会社事務所建物に4世帯共同住まいでの仮住環境にもぐりこみました。

戦前の居住宅(地図⑨)に近い京浜電鉄大森山谷駅(現大森町駅、地図⑦)や大森第一国民学校(地図⑪)は、1945年4月15日の大森町空襲(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第7、8回)」参照)で消失して廃墟となりました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第2回

物量と能率
試みに京浜国道に暫く立ってて帥覧。進駐軍の巨大な大小幾多の土木機械を装備したブルドーザを初め、異種類のトラックが無数に大地を轟々と揺るがして疾走する。軽快なジープが錯綜して走る。その後を、遠慮しながら、我が国の名物木炭自動車が、あえぎあえぎ遅れまいと走る。荷馬車の挽手は悠然と車に乗って、馬をヒッパタキヒッパタキどなりながら続く。大事な鼻づらを引っぱられた牛が迷惑想なつらして、天平泰平と漫歩する。リヤカー索く人、押すひと、自転車の前後に荷を積んで汗をながして力一杯踏んで走る人。現代戦と云う、洵に彼我戦力相違の縮図である。
本当に物量と能率に完敗したのである。「敵を知り、己を知る、百戦あやうからず」と云う言葉は、戦争中講演に、新聞に、雑誌におなじみの金言である。これでは、あまりにも敵をしらず、己を知らなさ過ぎる。勝つことをのみ知り、負けることを知らなかった、無智なのか。

第三次近衛内閣当時、日米交渉が停頓して悲観すべき時、イギリス、チャーチル首相は議会に演説して曰く、
 「アメリカの製鋼能力九千万屯に対し日本の能力一千万屯にすぎず、日本の懸命なる政治家は、よもやアメリカと開戦の愚はなすまい」
と。御自分は対独戦に手一ぱい汗を流しながら、忠告なのか、斯く皮肉ったものである世界の情勢は更に知らず、国内の機微が全然知らぬ我々は、今更死児に薬である。今次の世界大戦は、民主主義と全体主義の戦いであると云う。其の勝敗を決定したものは速度と生産力である。貧弱な資源しか持たぬ国、全体主義のイタリヤ、ドイツ、日本は完敗したのである。

機械力と精神力
総て物量と機械力にのみたよるアメリカと、二・二が五の精神力で必ず勝つと自信せし処に、我が軍閥の、あまりにも重大なる誤算をなしたのであろう。それは、個々の業績に就いてなら、明治開国以来、先人のたゆまざる努力により、敢えてアメリカに遜色のないものの多々ある事も真実であろう。個対個の戦なら絶対負けない処であろう。我々に宮本武蔵あり、荒木又右ェ門あり、三四郎あり、日の丸弁当に竹槍三千本の勇将あり、我々と雖も物干し竿でB29を叩きおとす位の気概なきにしもあらずであった。然し全体の総和となると其の水準が遥かに及ばぬものあまりにも多き事を。
アメリカの兵隊さんは全部自動車を運転し、且つ故障は自ら修繕し得る。我が兵隊さん百人に自動車運転の出来る人果たして何人あるであろうか、更に満足な修繕の出来る人ありやなしだ。

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