毎年、12月17日から19日の3日間、浅草観音様の境内で羽子板市が開かれます。
17日は、たまたま日曜日に当たりましたので、昼下がりに羽子板市を見に行きました。今年はこれで、浅草にはほおずき市(「風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その1~2」参照)、浅草サンバカーニバル(「風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル」参照)の都合3回目の見物となりました。

浅草は、有数の観光地でありますので、羽子板市のようなイベントと重なると大変な人出です。大森町からは、直通の都営地下鉄線で浅草駅を降りると、雷門までは人の列で切れ目がありません。
正面に「風神」・「雷神」を、仲見世側に「天竜像」・「金竜像」を安置されている馴染みの雷門を潜ると、仲見世のすぐ傍のコーナーで漫画家・芸能人による手書き羽子板30点を展示し、売上金を新潟中越地震被災者へ寄贈するチャリティー羽子板オークションを行っておりました。

羽子板市
仲見世通り は、観音様のお参り と羽子板市を見る人で大変混雑しておりました。
江戸中期頃は、正月用の歳の市は浅草に限られ、浅草寺の縁日は18日でありますので、17、18日両日は歳の最後の縁日として大変な賑わいがあり、この歳の市では羽子板も売られておりました。
この羽子板市の始まりは、今からおよそ300年以上も前の、江戸時代初期の1658年(万治年間)頃と伝われております。

花鳥風月や殿上人、左義長(女の子の初正月祝に、相手の家紋を付けた飾り羽子板を贈る風習があり、金銀箔などで精巧な細工をこらしたもの)を描いた羽子板は、江戸時代後期には、歌舞伎の興隆とともに、役者絵を押絵に用いて取りつけるようになり、人々は自分の 贔屓役者の羽子板を競って買い求め大変な人気があったようです。
明治時代に入り、歌舞伎黄金時代が到来し、九代目団十郎・初代左団次・五代目菊五郎などの名優が登場押し絵や押絵羽子板が江戸工芸・東京の職人芸として完成しました。
羽子板には、観賞用の絢爛豪華なものと、実際に遊ぶための簡素なものとがあり、以前には羽根つきは新春の遊びとして親しまれ、女の子の間で盛んに行われていました。

日本の伝統芸術となった押絵羽子板は、スターのブロマイドの役割をした役者の似顔絵のついたものから、 初正月のお祝いとして贈られた日本舞踊をテ-マとしたものまで様々ですが、今年の羽子板市には話題の人「ハンカチの王子」で親しまれた、早稲田実業の斉藤佑樹投手の羽子板が登場しました。

「ハンカチの王子」羽子板

羽子板市の出店
浅草観音様の境内には、江戸時代のままの情景が展開し、出店は仲見世商店街から宝蔵門付近、宝蔵門から五重塔前付近と宝蔵門から二天門前付近に出店の問屋、小売店、製造元の三者50店が揃い、境内いっぱいの人の波でした。それぞれの出店では、特徴有る押絵羽子板を販売しておりました。

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また、羽子板市の出店には、カラフルで綺麗な様々の羽根(羽根売店1店2店3店4)が売られており、結構売れておりました。

17日の午後は、風もなく暖かな日に恵まれ、境内の大いちょう の黄葉もまだ散らずに、傍らの沢山の食べ物の出店には、おでんで酒やビールを楽しむ客で込んでおりました。いちょうの木の下では、昔懐かしい「のしいか」やさんの店まで出ており、タイムスリップを味わいました。当にこの光景は、下町である浅草ならでの風情で羽子板と共にノスタルジアに誘われました。

羽子板を飾りつけている、さまざまの出店を一通り見ましたので、ますます込み合ってきた仲見世通りを避けて、仲見世の裏通りを雷門まで辿りました。
雷門の真横にある、和紙・江戸小物・浮世絵など和風雑貨の店の黒田屋本店(店内売り場)で買い物を済ませて出ると、三つ角の浅草文化観光センターのカラクリ時計が金龍踊りを奏でておりました。

江戸時代の羽子板市に触れましたので、久方振りに1801年に創業した「駒形どぜう」に足を延ばし(当日の駒形江戸通りのいちょう並木風景)て、初代が始めたどぜう鍋・どぜう汁を味わい、半日を昔に戻り心和む時を過ごしました。

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