大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」第2回
前回に続き、大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」展示出品から、大森駅と周辺の模様の変遷を見てみます。
大森駅周辺 小新井たけ作(出展:新大田区百景 大田区役所)

・大町桂月の八景園から蒲田梅園にかけての南郷の梅見紀行文に見る1906年頃の大森駅近辺の風景
大町桂月(1869-1925)本名芳衛は、高知出身の詩人、歌人、随筆家、評論家で、明治29年東大国文科卒業。「文芸倶楽部」、「太陽」などに随筆を書き美文家として知られ、韻文、紀行、評論、史伝、人生訓などの多彩な著書を残しました。
全国を旅して書いた紀行文も多く、「東京遊行記」は、東京とその近郊を散策した折に、行く先々の土地の情景を記述したもので、関東大震災や太平洋戦争、そして乱開発によって失われた土地の、元の姿をよみがえらせてくれます。



東京遊行記の「梅の名所 第四 南部の梅」では、1906年(明治39年)頃の紀行記の、大森駅に接した八景園の記述があり、「梅も数十百本あり水戸の常盤公園(現階楽園)を十分の一も小さくしたるものにて、さばかりの事はなけれど、田を隔てて品川湾を見渡す眺めは、常盤公園より千波沼を見下すぐらいの比には非ず。差引勘定、たいした優劣なく、これが此園の特色にして、他の梅園にその比を見ざる所也。」と梅園を紹介しております。
また、蒲田梅園(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)の記述では、「海岸まで電車(「大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1) 」参照)、のりかへて、蒲田梅園の前にて下る。手の入った庭なり、池めぐり、樹老いて風致瀟洒、大に見ばえのある処也、梅を賞する者は、臥龍梅以外ここを一訪せざるべからず。」と梅園を紹介しております。

臥龍梅福岡県大牟田市宇今山普光寺(うこんざんふこうじ)境内にあり、樹齢400年で全長22mの八重咲きの紅梅であり、2月下旬~3月上旬に見頃となります。

・小説「魔術」から芥川龍之介が見た1920年(大正9年)頃の大森駅周辺の風景
芥川龍之介(1892-1927)は、東京市京橋区で新原敏三長男として生まれ、母は11歳の時亡くなり叔父芥川道章に預けられる。
東京府立第三中学校(現両国高校)、第一高等学校から東京帝国大学英文科に進学。
在学中の1914年に菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』を刊行、処女小説「老年」を発表し、1915年代表作「羅生門」を、1916年に発表した「鼻」が漱石に絶賛される。
芥川龍之介の作品は、主に短編小説を書き、多くの傑作を残した。しかし、その一方で長編を物する事は出来なかった。35歳で服毒自殺し、障害を終える。



小説「魔術」に出てくる、「ある時雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を宇上がったり下りたりして、やっと竹薮に囲まれた小さな西洋館の前に梶棒を下ろしました。」という場面は、大森駅西口改札傍の山王の高台から続く馬込文士村までの起伏にとんだ高台を描写しており、文士村の知り合いの室生犀星、北原白秋や萩原朔太郎を訪れる時に、大森駅前から人力車に乗ったのではと察せられます。地図で示す様に東海道線の大森駅前には、高台がそびえ急な石段を上ると天祖神社のある山王の高台で、起伏のある台地を西に進むと現在の環七通りが谷となり、その先がまた起伏のある高台となり、文士村で有名な馬込です。

・「東京大森海岸 ぼくの戦争」(小関智弘)の1945年(昭和20年)の大森大空襲で大森殲滅の記
小関智弘(1933年大森生まれ)、高校時代から文筆活動をして、卒業後大森・蒲田の町工場で働きながら、日本の戦後の町工場を見据えてルポや小説を著し、「羽田浦地図」、「祀る町」で芥川賞候補、「錆色の町」、「地の息」で直木賞候補となりました。

私と同年生まれの小関智弘氏が書き下ろした「東京大森海岸 ぼくの戦争」は、東京大空襲の記録資料で大森に関しての資料は大変少ない中で、戦時中軍需工場が集積した大森は空襲の標的になり、機銃掃射に遭い住居も全焼の被災者となった戦中、戦後を少年の目線で振り返り、体験を語り戦争が風化しつつあると懸念して、「戦争は戦場でだけ起こるのではなく、戦争を経験した人が『自分はこうだった』と声を上げることが必要だ」との思いで執筆したとあります(「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回) 」参照)。

「東京大森海岸 ぼくの戦争」の記述中に、「五月二十九日のこの空襲は、横浜や鶴見を集中的に爆撃したものであった。横浜、鶴見を爆撃してもなお余った焼夷弾を、旋回して東京湾上に出てゆく帰路の置き土産として落としていったものであった。」たり、この空襲で入新井の住居が戦災に合い、あたり一面の焼野原から大森駅の駅舎が見えたことの描写が書かれております。
大森の大空襲の壊滅的被害は、それより一月半ほど前の四月十五日の晩から翌朝にかけての大森町大空襲により、26万3千人が羅災にあったのです。戦災を示す図は、大森警察署付近の戦災の焼け跡で、遠くに見える大森町のガス会社のガスタンクまで、何も残らない焼け野原です。



このガスタンクは、大森町の住人にとっては川口のキュウポラのある街と同様にシンボルでした。疎開前の小学生であった頃、住居の二階の物干しから左側の露出のガスタンクは、朝ガスが満タンで、夕方にはガス残量が少なくなる様子を見ながら暮らしていた懐かしい写真なのです。
この、被害風景が、まさに完結した『若山武義の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)第1~11回』の記述で、若山氏など住民が戦災遭遇した跡の記録写真そのものなのです。
若山武義の手記は、大森の他に『若山武義の手記(1946年記述)第2編「戦災日誌(中野にて)第1~7回』と『若山武義の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)第1~9回』があり、空襲編は完結しております。

現在、戦争を知らない世代が8割を超えました。また、北朝鮮では核実験を実施し、きな臭い世の中となってきました。悲惨で惨めな意味の無い戦争体験は、我々で終わりとして恒久平和の世界を願うために、是非無謀な戦争を起こさないように語りついて頂きたいと思います。

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