正論6月号の記事で、学者の肩書を利用した政治活動を批判したが、その批判行為自体が政治活動ではないかとの批判を時々受ける。そうした批判は想定内で、正論の記事で先回りして答えているのだが、ネットで言論活動をしている人は活字アレルギーの人が多いようで、実際に雑誌の記事を読んで批判している人はほとんどいない。そこで、まず記事の該当箇所をここに引用する。

 

-----

もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。でなければ、学問の政治的独立性は守れない。実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。

『学問では何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。

-----

 

学問の自由というのは、研究対象を自由に選べることと、研究の結果得られた知見を自由に公表できることを指す。学問の看板さえ掲げれば何をやっても許されるということではない。たとえば、学者が自由気ままに事実を捏造したり改竄したりすることは許されない。そうした学者の倫理に反する行為を批判することも政治活動なのだろうか。学者の政治活動批判も、捏造や改竄と同様に、学者の倫理規範に関することである。学問の倫理規範を守ろうと発言することさえ許されなくなれば、学問は真理追求とは全く縁のないものになる。

 

政治活動というと、一般には個別の法案・政策の推進・反対、あるいは特定の政党の活動に与することを指す。安保法制反対はこの定義に合致する。こういう個別の政治課題には、どういう方向に進むにしてもメリットとデメリットがあるのが常だが、賛否が対立している場合、政争の当事者は自らの意見をサポートする事実のみを取り上げ、都合の悪い事実は隠そうとする。これは、学問が目指す真理の追求とは相容れない。もちろん、政治的議論を建設的なものにするため、その話題に関する専門的な知見を提供するのは学者の守備範囲である。しかし、特定の政治団体と一体的に行動すると、その政治団体に不利な事実に言及できなくなる。そうなると、それはもう学問ではない。

 

さらに、学者が政治活動をすると、政治が学問に介入する口実を与えることにもなる。学者が特権階級であると考えない限り、学者が政治に介入できるなら、政治家も学問に介入できるという論理が成り立つ。法の下の平等を想定する以上、政治を学問に介入させないためには、学問も政治に介入しないという原則に則る必要がある。

 

学術的に得られた知見が、結果として社会的・政治的な影響を持つことはもちろんある。その意味で、学問は社会的価値と無縁ではいられない。たとえば、人工知能がさらに発達して、人間の医師や弁護士以上のパフォーマンスを見せるようになれば、それが医師や弁護士の資格制度に影響が及ぶかもしれない。ただ、技術の進歩それ自体は事実に関する議論として閉じており、資格制度という政治的な問題とは切り離して議論できる。私がNHKだけ映らなくするアンテナを作ったことは政治活動にあたると言う人がいるが、私はNHK問題で困っている人に現行の放送法の範囲で対抗する技術的ソリューションを提供しただけで、放送法改正などを目指す政治活動にはコミットしていない。

 

学者として問題になるのは、特定の団体に有利なように事実を曲げる行為である。たとえば、ある企業が排出している物質が公害病の原因なのに、その企業に頼まれてそれを否定するデータを出すことがその行為に相当する。こうしたことは企業だけでなく、政治団体にも起こり得る。たとえば、自然エネルギー推進運動は、科学的に間違った事実をしばしば自らの主張の根拠にしている。それらは高校の理科を分かっていれば簡単に見抜ける誤りであることも多いが、そういう政治運動にコミットしている学者は少なくない。

 

学問は真理探究を目指すものである。われわれ科学者は、その真理は外の世界にあり、実験や観察によってそれを発見しようとする。学者の政治活動を肯定する人は、自分の頭の中にある理想が真理であると信じているように見える。政治活動はその真理の布教活動という位置づけなのかもしれない。しかし、われわれ科学者からみると、それでは宗教と何ら変わりはないのである。