【HK12S/2018】◎Dixieland Daimyo◎1986◎
江戸時代末期、アメリカから駿河の国の小藩に流れ着いた黒人三人が、音楽好きの大名と出会い、城中でジャムセッションを繰り広げる姿を描く。筒井康隆原作の同名小説の映画化で、脚本は「近頃なぜかチャールストン」の岡本喜八と「南極物語」の石堂淑朗の共同執筆。監督は岡本喜八、撮影は「童貞物語」の加藤雄大がそれぞれ担当。
南北戦争が終り、解放された黒人奴隷のジョーは、バーモント近くの激戦地跡で弟サム、従兄ルイ、叔父ボブの3人に出会った。彼らはニューオリンズから船に乗り、故郷のアフリカへ帰るため楽隊でもやって船賃を稼ごうと、ジョーが中心になって演奏を始めた。ボブのクラリネット、ルイのコルネット、サムの太鼓、ジョーのトロンボーンと、繰り返し演奏するうち、曲は軽快にジャズらしくなり、4人は夢中になって来た。4カ月たち、メキシコ商人にだまされた4人は、香港行の船の中だった。ある日、ボブが鳴らなくなったクラリネットを前に、病気で死んだ。ある大嵐のなか、三人はボートで船から逃げ出した。彼らのボートは、駿河湾の庵原藩に打ち上げられた。庵原藩の藩主、海郷亮勝は大の音楽好きで、家老の目を盗んではふところから篳篥を出して吹いている。彼には女らしい文子と、少年のように勇しい松枝という二人の妹がいた。ジョーたち三人は医師、玄斉のところに運び込まれる。亮勝は彼らたちにひとめ会いたいと願うが、家老の石出九郎左衛門は許してくれない。江戸幕府からは、黒人の処分は亮勝に任せるとの命令が入った。亮勝は城の地下座敷牢にジョーたちを入れる。江戸から世継ぎ誕生の知らせが来た。亮勝は喜ぶが、松枝のひと言でそれが不義の子だとわかる。監督不行届を恥じた九郎左衛門は、切腹をすると騒ぎだす。亮勝は切腹と交換にジョーたちと会うことにした。鈴川門之助を通訳に、亮勝はここに流れつくまでの話を聞いた。そして、サムが桶をひっくり返して、火鉢の火箸で叩き始め、ルイがコルネット、ジョーがトロンボーンとジャズ演奏を始める。亮勝はボブのクラリネットを直し、吹き始めた。格子戸を外した座敷牢は、一転、ステージに変わった。ジョーたちの演奏に、城中のものが鼓と横笛、算盤、薩摩琵琶、琴、鍋、釜、桶、三味線などで加わり、大ジャム・セッションが始まった。その上を、江戸に向かう討幕派、彼らと敵対する幕府の兵、百姓一揆たちが駆けぬける。亮勝が彼らのために城を開通させたのだ。やがて夜が明け、新政府軍、殿銃隊が朝もやの中に消えて行った。時は、明治元年!
http://blogs.yahoo.co.jp/hk5studio/archive/2009/5/22
http://blogs.yahoo.co.jp/hk5studio/archive/2010/5/22
http://blogs.yahoo.co.jp/hk5studio/archive/2011/5/22
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http://blogs.yahoo.co.jp/hk5studio/archive/2013/5/22
http://blogs.yahoo.co.jp/hk5studio/archive/2014/5/22
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http://blogs.yahoo.co.jp/hk5studio/archive/2017/5/22
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1986年4月19日に大映製作、松竹配給で公開された。同時上映は『犬死にせしもの』。
舞台を原作の南九州から駿河に変更し、東海道の難所を細長く占める城のため、官軍と幕府軍の通り道となってしまうという設定を加え、“戊辰戦争を完全に無視してのセッション”という側面を強調した。それ以外は原作に忠実である。黒人俳優はアメリカから来日したが、米国南部の場面はすべて静岡ロケ、英語のセリフはアフレコをかぶせて二重音声で処理された。原作者が若いころに傾倒し、『馬の首風雲録』などの作品でもオマージュを捧げたことのある岡本喜八のメガフォンであり、記者会見で並びながら初期映画の思い出などを話したという。岡本監督にとって3本目の大映映画(東京撮影所は2本目、他に長編TV映画を東京で2本、京都で1本撮っている)だが、クライマックスシーンのセットは東宝スタジオに建てられ、音楽監督とプロデューサーを除くメインスタッフ全員が東宝から起用された。同年キネマ旬報ベストテン10位。映画化困難といわれる筒井康隆原作では初のランクインとなった。
https://search.yahoo.co.jp/realtime/search?p=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%BA%E5%A4%A7%E5%90%8D&aq=-1&ai=h1bTj89sQXK1Zmz918riuA&ts=6057&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
江戸時代末期、アメリカから駿河の国の小藩に流れ着いた黒人三人が、音楽好きの大名と出会い、城中でジャムセッションを繰り広げる姿を描く。筒井康隆原作の同名小説の映画化で、脚本は「近頃なぜかチャールストン」の岡本喜八と「南極物語」の石堂淑朗の共同執筆。監督は岡本喜八、撮影は「童貞物語」の加藤雄大がそれぞれ担当。
南北戦争が終り、解放された黒人奴隷のジョーは、バーモント近くの激戦地跡で弟サム、従兄ルイ、叔父ボブの3人に出会った。彼らはニューオリンズから船に乗り、故郷のアフリカへ帰るため楽隊でもやって船賃を稼ごうと、ジョーが中心になって演奏を始めた。ボブのクラリネット、ルイのコルネット、サムの太鼓、ジョーのトロンボーンと、繰り返し演奏するうち、曲は軽快にジャズらしくなり、4人は夢中になって来た。4カ月たち、メキシコ商人にだまされた4人は、香港行の船の中だった。ある日、ボブが鳴らなくなったクラリネットを前に、病気で死んだ。ある大嵐のなか、三人はボートで船から逃げ出した。彼らのボートは、駿河湾の庵原藩に打ち上げられた。庵原藩の藩主、海郷亮勝は大の音楽好きで、家老の目を盗んではふところから篳篥を出して吹いている。彼には女らしい文子と、少年のように勇しい松枝という二人の妹がいた。ジョーたち三人は医師、玄斉のところに運び込まれる。亮勝は彼らたちにひとめ会いたいと願うが、家老の石出九郎左衛門は許してくれない。江戸幕府からは、黒人の処分は亮勝に任せるとの命令が入った。亮勝は城の地下座敷牢にジョーたちを入れる。江戸から世継ぎ誕生の知らせが来た。亮勝は喜ぶが、松枝のひと言でそれが不義の子だとわかる。監督不行届を恥じた九郎左衛門は、切腹をすると騒ぎだす。亮勝は切腹と交換にジョーたちと会うことにした。鈴川門之助を通訳に、亮勝はここに流れつくまでの話を聞いた。そして、サムが桶をひっくり返して、火鉢の火箸で叩き始め、ルイがコルネット、ジョーがトロンボーンとジャズ演奏を始める。亮勝はボブのクラリネットを直し、吹き始めた。格子戸を外した座敷牢は、一転、ステージに変わった。ジョーたちの演奏に、城中のものが鼓と横笛、算盤、薩摩琵琶、琴、鍋、釜、桶、三味線などで加わり、大ジャム・セッションが始まった。その上を、江戸に向かう討幕派、彼らと敵対する幕府の兵、百姓一揆たちが駆けぬける。亮勝が彼らのために城を開通させたのだ。やがて夜が明け、新政府軍、殿銃隊が朝もやの中に消えて行った。時は、明治元年!
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1986年4月19日に大映製作、松竹配給で公開された。同時上映は『犬死にせしもの』。
舞台を原作の南九州から駿河に変更し、東海道の難所を細長く占める城のため、官軍と幕府軍の通り道となってしまうという設定を加え、“戊辰戦争を完全に無視してのセッション”という側面を強調した。それ以外は原作に忠実である。黒人俳優はアメリカから来日したが、米国南部の場面はすべて静岡ロケ、英語のセリフはアフレコをかぶせて二重音声で処理された。原作者が若いころに傾倒し、『馬の首風雲録』などの作品でもオマージュを捧げたことのある岡本喜八のメガフォンであり、記者会見で並びながら初期映画の思い出などを話したという。岡本監督にとって3本目の大映映画(東京撮影所は2本目、他に長編TV映画を東京で2本、京都で1本撮っている)だが、クライマックスシーンのセットは東宝スタジオに建てられ、音楽監督とプロデューサーを除くメインスタッフ全員が東宝から起用された。同年キネマ旬報ベストテン10位。映画化困難といわれる筒井康隆原作では初のランクインとなった。
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