【HK14S/008】◎夏目漱石◎「こころ」◎先生の遺書(八)◎

幸(さいわい)にして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私は、この予言の中(うち)に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内いつの間にか先生の食卓で飯(めし)を食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利(き)かなければならないようになった。
普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私は殆(ほと)んど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因(げんいん)かどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向って多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美くしいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物も有(も)たないような気がした。
これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除(の)ければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知(し)り合(あい)になった時の奥さんについては、ただ美くしいという外(ほか)に何の感じも残っていない。
ある時私は先生の宅(うち)で酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍(そば)で酌をしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「御前も一つ御上(おあが)り」といって、自分の呑(の)み干した盃(さかずき)を差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後(あと)、迷惑そうにそれを受取った。奥さんは綺麗(きれい)な眉(まゆ)を寄せて、私の半分ばかり注(つ)いで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと先生の間に下(しも)のような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めと仰(おっ)しゃった事は滅多(めった)にないのにね」
「御前は嫌(きらい)だからさ。しかし稀(たま)には飲むといいよ。好(い)い心持になるよ」
「些(ちっ)ともならないわ。苦しいぎりで。でも貴夫(あなた)は大変御愉快(ごゆかい)そうね、少し御酒(ごしゅ)を召上(めしあが)ると」
「時によると大変愉快になる。しかし何時(いつ)でもという訳には行かない」
「今夜は如何(いかが)です」
「今夜は好い心持だね」
「これから毎晩少しずつ召上ると宜(よ)ござんすよ」
「そうは行かない」
「召上(めしや)がって下さいよ。その方が淋(さむ)しくなくって好いから」
先生の宅は夫婦と下女(げじょ)だけであった。行くたびに大抵はひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或時(あるとき)は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅(うるさ)いもののように考えていた。
「一人貰(もら)って遣(や)ろうか」と先生がいった。
「貰(もらい)ッ子(こ)じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供は何時まで経(た)ったって出来っこないよ」と先生がいった。
奥さんは黙っていた。「何故(なぜ)です」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。