【HK14S/005】◎夏目漱石◎「こころ」◎先生の遺書(五)◎

私は墓地の手前にある苗畠(なえばたけ)の左側から這入(はい)って、両方に楓(かえで)を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。するとその端(はず)れに見える茶店(ちゃみせ)の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡(めがね)の縁(ふち)が日に光るまで近く寄って行った。そうして出抜(だしぬ)けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
先生は同じ言葉を二遍(へん)繰り返した。その言葉は森閑とした昼の中(うち)に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応(こた)えられなくなった。
「私の後(あと)を跟(つ)けて来たのですか。どうして……」
先生の態度はむしろ落付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中(うち)には判然(はっきり)いえないような一種の曇(くもり)があった。
私は私がどうして此所(ここ)へ来たかを先生に話した。
「誰の墓へ参りに行ったか、妻(さい)がその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何も仰(おっ)しゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会った貴方(あなた)に。いう必要がないんだから」
先生は漸(ようや)く得心(とくしん)したらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解(わか)らなかった。
先生と私は通(とおり)へ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉(イサベラ)何々(なになに)の墓だの、神僕(しんぼく)ロギンの墓だのという傍(かたわら)に、一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏生(しつうぶっしょう)と書いた塔婆(とうば)などが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫(ほ)り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。
先生はこれらの墓標が現わす人種々(ひとさまざま)の様式に対して、私ほどに滑稽(こっけい)もアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い墓石(はかいし)だの細長い御影(みかげ)の碑(ひ)だのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「貴方は死という事実をまだ真面目(まじめ)に考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
墓地の区切り目に、大きな銀杏(いちょう)が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢(こずえ)を見上げて、「もう少しすると、綺麗(きれい)ですよ。この木がすっかり黄葉(こうよう)して、ここいらの地面は金色(きんいろ)の落葉で埋(うず)まるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
向うの方で凸凹(でこぼこ)の地面をならして新墓地を作っている男が、鍬(くわ)の手を休めて私たちを見ていた。私たちは其所(そこ)から左へ切れてすぐ街道へ出た。
これから何処(どこ)へ行くという目的(あて)のない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生は何時(いつ)もより口数を利(き)かなかった。それでも私はさほどの窮窟(きゅうくつ)を感じなかったので、ぶらぶら一所に歩いて行った。
「すぐ御宅(おたく)へ御帰りですか」
「ええ別に寄る所もありませんから」
二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生の御宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
「いいえ」
「何方(どなた)の御墓があるんですか。――御親類の御墓ですか」
「いいえ」
先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町(ちょう)ほど歩いた後(あと)で、先生が不意に其所へ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
「御友達の御墓へ毎月(まいげつ)御参りをなさるんですか」
「そうです」
先生はその日これ以外を語らなかった。