【HK14S/002】◎夏目漱石◎「こころ」◎先生の遺書(二)◎ | HK5STUDIO/CONVENI

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【HK14S/002】◎夏目漱石◎「こころ」◎先生の遺書(二)◎

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私(わたくし)がその掛茶屋(かけぢゃや)で先生を見た時は、先生が丁度着物を脱いでこれから海へ入ろうとする所であった。私はその時反対に濡(ぬ)れた身体(からだ)を風に吹かして水から上って来た。二人の間には目を遮(さえ)ぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私は遂(つい)に先生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫(ほうまん)であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付出(みつけだ)したのは、先生が一人の西洋人を伴(つ)れていたからである。

その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否(いな)や、すぐ私の注意を惹(ひ)いた。純粋の日本の浴衣(ゆかた)を着ていた彼は、それを床几(しょうぎ)の上にすぽりと放(ほう)り出したまま、腕組をして海の方を向いて立っていた。彼は我々の穿(は)く猿股(さるまた)一つの外(ほか)何物も肌に着けていなかった。私にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井(ゆい)が浜(はま)まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を眺めていた。私の尻(しり)を卸(おろ)した所は少し小高い丘の上で、そのすぐ傍(わき)がホテルの裏口になっていたので、私の凝(じっ)としている間(あいだ)に、大分(だいぶ)多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股(もも)は出していなかった。女は殊更(ことさら)肉を隠しがちであった。大抵は頭に護謨(ゴム)製(せい)の頭巾(ずきん)を被(かぶ)って、海老茶(えびちゃ)や紺(こん)や藍(あい)の色を波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼には、猿股一つで済まして皆(みん)なの前に立っているこの西洋人が如何(いか)にも珍らしく見えた。

 彼はやがて自分の傍(わき)を顧りみて、其所(そこ)にこごんでいる日本人に、一言二言(ひとことふたこと)何かいった。その日本人は砂の上に落ちた手拭(てぬぐい)を拾い上げている所であったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人が即ち先生であった。

 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿(うしろすがた)を見守っていた。すると彼らは真直(まっすぐ)に波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅(とおあさ)の磯近(いそぢか)くにわいわい騒いでいる多人数(たにんず)の間を通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体を拭(ふ)いて着物を着て、さっさと何処(どこ)へか行ってしまった。

 彼らの出て行った後(あと)、私はやはり元の床几に腰を卸して烟草(タバコ)を吹かしていた。その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうも何処かで見た事のある顔のように思われてならなかった。しかしどうしても何時(いつ)何処で会った人か想(おも)い出せずにしまった。

 その時の私は屈托(くったく)がないというよりむしろ無聊(ぶりょう)に苦しんでいた。それで翌日(あくるひ)もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋まで出かけて見た。すると西洋人は来ないで先生一人麦藁帽(むぎわらぼう)を被って遣(や)って来た。先生は眼鏡(めがね)をとって台の上に置いて、すぐ手拭で頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日(きのう)のように騒がしい浴客(よくかく)の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後(あと)が追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まで跳(はね)かして相当の深さの所まで来て、其所(そこ)から先生を目標(めじるし)に抜手(ぬきで)を切った。すると先生は昨日と違って、一種の弧線(こせん)を描(えが)いて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。それで私の目的は遂に達せられなかった。私が陸(おか)へ上(あが)って雫(しずく)の垂れる手を振りながら掛茶屋に入(はいる)と、先生はもうちゃんと着物を着て入違(いれちがい)に外へ出て行った。