インドは近年、急速な経済発展を続けており、「21世紀 もっとも成長する国」とも言われています。
国際経済においても、インドは存在感を増しています。
ITなどのソフト産業や、自動車をはじめとする製造業などで注目を集めています。
インド躍進の理由の一つとして、英語が準公用語であるということも挙げられます。
インドは、長い間イギリスの植民地支配を受けていたため、英語が普及しています。


今回の舞台は、19世紀末から20世紀までのインド、南アジアです。
植民地として、イギリスに多くの富をもたらしていたインドでは、19世紀の終わりから独立への
動きが生まれました。
“インド独立の父”と呼ばれるガンディーは、「非暴力・不服従」という理念を掲げて民衆を導きました。
第二次世界大戦後、1947年にインドは独立を勝ち取ります。
しかし、それはガンディーの理想とは違った形での独立でした。
そして、それが原因となって南アジアでは様々な紛争が起こり、現在でも続いています。
今回は、ガンディーの活動に着目しながら、インド独立の歴史を見ていきます。
第二次世界大戦中、日本はアジアに勢力を伸ばしていました。
そのため、アジアに植民地を持っていたヨーロッパ列強とも対立し、インドへも迫っていました。
その動きはインドの独立運動に火をつけます。
しかし、当時の大英帝国=イギリスにとって、インドは絶対に欠かすことのできない重要な存在でした。
イギリスによる、インドの植民地支配は、18世紀半ばから進んでいました。
19世紀になると、イギリスは、世界の主導権を握ります。
そのイギリスの繁栄を支えていたのが、植民地インドでした。
インドは、「イギリス王冠の輝ける宝石である」と言われていました。
インドは綿花などの原料生産地として、またイギリスで作られた工業製品の消費地として、イギリスの
工業発展に貢献しました。
経済面だけでなく、軍事においてもインドは重要でした。
世界中に存在するイギリス植民地の安定を図るために、インド軍が大きな役割を果たしていました。
さらに、南アフリカのボーア戦争や中国で起きた義和団事件の鎮圧にも、インドから軍隊が送られました。
植民地支配に大きな役割を果たしたのが、鉄道です。
鉄道はインドからの綿花、イギリスからの工業品を輸送する手段として用いられていました。
さらに緊急時に軍隊を速やかに移動させるためにも、鉄道が必要でした。
イギリスは積極的に鉄道建設への投資を進め、インド全体に支配を行き渡らせていきました。
イギリスにとってインドは重要であり、インドだけは絶対に手放したくない存在でした。
イギリスの大英博物館には、仏像や絵画など、インドから持ち出されたものが数多くあるといいます。
また、インドにとってもプラスに思われる鉄道建設についても、実際はインドのために作られたものでは
ありませんでした。
過去のインドの地図を見てみると、鉄道が綿花地帯をつないでいることが分かります。
これはインドの綿花を、いかにイギリスへ多く持ち帰ることができるかを考えて建設されたものでした。
つまり、全てイギリスの都合に合わせて建設されたと言えます。


1885年、インド人エリートが中心となって、インド国民会議が開かれました。
彼らはインドの自治を求め、やがて独立運動の母体になっていきます。
これに対しイギリスは、ヒンドゥー教とイスラーム教の宗教対立をあおることで民族運動を分断しようとします。
例えば、運動の中心だったベンガルを、住民の宗教によって分割する法令を定めました。
また国民会議とは別に、イスラーム教徒=ムスリムの政治組織を結成させたりもします。
全インド・ムスリム連盟です。
こうした状況の中で、第一次世界大戦が勃発します。
イギリスの参戦によって、インドも戦争に巻き込まれていきます。
イギリスは、戦争が終わったら自治を与えるとインドに約束し、戦争に協力させました。
しかし戦後、実現されたのは自治とは程遠く、地方行政の一部が任されただけでした。
さらに、民族運動を弾圧するために、ローラット法を定めます。
これによって、令状なしで逮捕したり、裁判なしで投獄したりできるようにしました。
イギリスの裏切りへの反感から、インドの独立運動は盛り上がっていきます。
そして、それを指導したのがガンディーでした。
イギリスで法律を学んだガンディーは、南アフリカで人権運動に関わり、インドでも有名になっていました。
ガンディーは「非暴力」でありながらも、決してイギリスに服従しない「不服従」という理念を掲げ、
独立運動を一般大衆にも広げていきます。
ガンディーは、
「政府との協力を差し控えるかどうかは、奪うべからざる民衆の権利である。」
という言葉を残しています。
つまり、政府に裏切られた場合は、政府に協力しない権利を与えられるというものでした。
1930年、ガンディーは、「塩の行進」を行います。
当時、生活に欠かせない塩の製造・販売は、イギリスが独占し、高い税金をかけていました。
ガンディーは これに反対し、海岸までおよそ380kmの道のりを歩いて、海水から塩を作ります。
またガンディーは、「ひとつのインド」を合言葉に、すべてのインド人が宗教の違いを超えて連帯することが
大事だと考えていました。
第一次世界大戦後、イスラーム国家のオスマン帝国が危機を迎えます。
そのときガンディーは、インド国内のムスリムとともに、それを支援しました。
ガンディーは、
「さまざまな宗教は、同じ場所に到達する別々の道です。
どんな道を通ろうとも、なんの問題があるのでしょうか。」
という言葉も残しています。
ガンディーの運動は、一般大衆を巻き込み、全インド的な盛り上がりを見せていきました。
ガンディーが塩に注目したのには、理由がありました。
塩には宗教的な色がなく、食生活には絶対に欠かすことのできないものであるということです。
それほど大切な塩に、イギリスは膨大な税金をかけていました。
そのため、ガンディーは塩の行進を行い、塩が独立のシンボルとなりました。


1939年、第二次世界大戦が始まります。
イギリスは、このときもインドに戦争協力を要請します。
しかし国民会議派はこれを拒否し、「クイット・インディア」=“イギリスはインドから出て行け”という
大衆運動を始めました。
一方、ムスリム連盟は、少数派である自分たちの権利を守ろうとする行動に出ます。
1940年に「パキスタン宣言」を発表し、インドとは別の国としての独立を訴えます。
第二次世界大戦が終わると、インドでは独立への動きがさらに強くなっていきます。
しかし、二度の大戦で国力が衰えたイギリスには、それを抑える力は残っていませんでした。
1947年、ついにイギリスは、権力をインドに譲り渡すことを決定します。
しかし国民会議派と、ムスリム連盟との溝は埋まりませんでした。
ヒンドゥー教徒が多く住むインドと、ムスリムが多数派のパキスタンとに、分かれて独立する
ことになります。
そのためパキスタンは、東西に離れた領土を持つ国になりました。
その後 1971年、東パキスタンは、バングラデシュとして独立します。


インドとパキスタンとの対立は、21世紀の現在も続いています。
三度にわたって戦争が起きたほか、両者の対立を背景とするテロ事件も起こっています。
ガンディーの願った「ひとつのインド」は、結局叶うことはありませんでした。
インド独立の翌年、ガンディーは、ヒンドゥー過激派の青年によって暗殺されました。
しかしガンディーの唱えた「非暴力」「不服従」という理念は、その後も時代と場所を越えて、多くの人々に
影響を与えています。
インドとパキスタンが2つの国に別れてしまったという結果は、ガンディーの考えに完全に反するものでした。
本来、インドは異なる宗教同士が平和に共存していた時代が多くあったといいます。
インド南のケララという州には、トリバンドラムという街があり、そこには大きな交差点があります。
その片側には大きなムスリムの寺院があり、もう一方にはヒンドゥーの大きな寺があります。
さらに、もう一方には、カトリックの大きな教会もあるといいます。
ここでは、すべての宗教が共存しています。
宗教によって国が分裂してしまったことについて、ナイルさんはとても寂しいことだと話します。
国際経済においても、インドは存在感を増しています。
ITなどのソフト産業や、自動車をはじめとする製造業などで注目を集めています。
インド躍進の理由の一つとして、英語が準公用語であるということも挙げられます。
インドは、長い間イギリスの植民地支配を受けていたため、英語が普及しています。


今回の舞台は、19世紀末から20世紀までのインド、南アジアです。
植民地として、イギリスに多くの富をもたらしていたインドでは、19世紀の終わりから独立への
動きが生まれました。
“インド独立の父”と呼ばれるガンディーは、「非暴力・不服従」という理念を掲げて民衆を導きました。
第二次世界大戦後、1947年にインドは独立を勝ち取ります。
しかし、それはガンディーの理想とは違った形での独立でした。
そして、それが原因となって南アジアでは様々な紛争が起こり、現在でも続いています。
今回は、ガンディーの活動に着目しながら、インド独立の歴史を見ていきます。
第二次世界大戦中、日本はアジアに勢力を伸ばしていました。
そのため、アジアに植民地を持っていたヨーロッパ列強とも対立し、インドへも迫っていました。
その動きはインドの独立運動に火をつけます。
しかし、当時の大英帝国=イギリスにとって、インドは絶対に欠かすことのできない重要な存在でした。
イギリスによる、インドの植民地支配は、18世紀半ばから進んでいました。
19世紀になると、イギリスは、世界の主導権を握ります。
そのイギリスの繁栄を支えていたのが、植民地インドでした。
インドは、「イギリス王冠の輝ける宝石である」と言われていました。
インドは綿花などの原料生産地として、またイギリスで作られた工業製品の消費地として、イギリスの
工業発展に貢献しました。
経済面だけでなく、軍事においてもインドは重要でした。
世界中に存在するイギリス植民地の安定を図るために、インド軍が大きな役割を果たしていました。
さらに、南アフリカのボーア戦争や中国で起きた義和団事件の鎮圧にも、インドから軍隊が送られました。
植民地支配に大きな役割を果たしたのが、鉄道です。
鉄道はインドからの綿花、イギリスからの工業品を輸送する手段として用いられていました。
さらに緊急時に軍隊を速やかに移動させるためにも、鉄道が必要でした。
イギリスは積極的に鉄道建設への投資を進め、インド全体に支配を行き渡らせていきました。
イギリスにとってインドは重要であり、インドだけは絶対に手放したくない存在でした。
イギリスの大英博物館には、仏像や絵画など、インドから持ち出されたものが数多くあるといいます。
また、インドにとってもプラスに思われる鉄道建設についても、実際はインドのために作られたものでは
ありませんでした。
過去のインドの地図を見てみると、鉄道が綿花地帯をつないでいることが分かります。
これはインドの綿花を、いかにイギリスへ多く持ち帰ることができるかを考えて建設されたものでした。
つまり、全てイギリスの都合に合わせて建設されたと言えます。


1885年、インド人エリートが中心となって、インド国民会議が開かれました。
彼らはインドの自治を求め、やがて独立運動の母体になっていきます。
これに対しイギリスは、ヒンドゥー教とイスラーム教の宗教対立をあおることで民族運動を分断しようとします。
例えば、運動の中心だったベンガルを、住民の宗教によって分割する法令を定めました。
また国民会議とは別に、イスラーム教徒=ムスリムの政治組織を結成させたりもします。
全インド・ムスリム連盟です。
こうした状況の中で、第一次世界大戦が勃発します。
イギリスの参戦によって、インドも戦争に巻き込まれていきます。
イギリスは、戦争が終わったら自治を与えるとインドに約束し、戦争に協力させました。
しかし戦後、実現されたのは自治とは程遠く、地方行政の一部が任されただけでした。
さらに、民族運動を弾圧するために、ローラット法を定めます。
これによって、令状なしで逮捕したり、裁判なしで投獄したりできるようにしました。
イギリスの裏切りへの反感から、インドの独立運動は盛り上がっていきます。
そして、それを指導したのがガンディーでした。
イギリスで法律を学んだガンディーは、南アフリカで人権運動に関わり、インドでも有名になっていました。
ガンディーは「非暴力」でありながらも、決してイギリスに服従しない「不服従」という理念を掲げ、
独立運動を一般大衆にも広げていきます。
ガンディーは、
「政府との協力を差し控えるかどうかは、奪うべからざる民衆の権利である。」
という言葉を残しています。
つまり、政府に裏切られた場合は、政府に協力しない権利を与えられるというものでした。
1930年、ガンディーは、「塩の行進」を行います。
当時、生活に欠かせない塩の製造・販売は、イギリスが独占し、高い税金をかけていました。
ガンディーは これに反対し、海岸までおよそ380kmの道のりを歩いて、海水から塩を作ります。
またガンディーは、「ひとつのインド」を合言葉に、すべてのインド人が宗教の違いを超えて連帯することが
大事だと考えていました。
第一次世界大戦後、イスラーム国家のオスマン帝国が危機を迎えます。
そのときガンディーは、インド国内のムスリムとともに、それを支援しました。
ガンディーは、
「さまざまな宗教は、同じ場所に到達する別々の道です。
どんな道を通ろうとも、なんの問題があるのでしょうか。」
という言葉も残しています。
ガンディーの運動は、一般大衆を巻き込み、全インド的な盛り上がりを見せていきました。
ガンディーが塩に注目したのには、理由がありました。
塩には宗教的な色がなく、食生活には絶対に欠かすことのできないものであるということです。
それほど大切な塩に、イギリスは膨大な税金をかけていました。
そのため、ガンディーは塩の行進を行い、塩が独立のシンボルとなりました。


1939年、第二次世界大戦が始まります。
イギリスは、このときもインドに戦争協力を要請します。
しかし国民会議派はこれを拒否し、「クイット・インディア」=“イギリスはインドから出て行け”という
大衆運動を始めました。
一方、ムスリム連盟は、少数派である自分たちの権利を守ろうとする行動に出ます。
1940年に「パキスタン宣言」を発表し、インドとは別の国としての独立を訴えます。
第二次世界大戦が終わると、インドでは独立への動きがさらに強くなっていきます。
しかし、二度の大戦で国力が衰えたイギリスには、それを抑える力は残っていませんでした。
1947年、ついにイギリスは、権力をインドに譲り渡すことを決定します。
しかし国民会議派と、ムスリム連盟との溝は埋まりませんでした。
ヒンドゥー教徒が多く住むインドと、ムスリムが多数派のパキスタンとに、分かれて独立する
ことになります。
そのためパキスタンは、東西に離れた領土を持つ国になりました。
その後 1971年、東パキスタンは、バングラデシュとして独立します。


インドとパキスタンとの対立は、21世紀の現在も続いています。
三度にわたって戦争が起きたほか、両者の対立を背景とするテロ事件も起こっています。
ガンディーの願った「ひとつのインド」は、結局叶うことはありませんでした。
インド独立の翌年、ガンディーは、ヒンドゥー過激派の青年によって暗殺されました。
しかしガンディーの唱えた「非暴力」「不服従」という理念は、その後も時代と場所を越えて、多くの人々に
影響を与えています。
インドとパキスタンが2つの国に別れてしまったという結果は、ガンディーの考えに完全に反するものでした。
本来、インドは異なる宗教同士が平和に共存していた時代が多くあったといいます。
インド南のケララという州には、トリバンドラムという街があり、そこには大きな交差点があります。
その片側には大きなムスリムの寺院があり、もう一方にはヒンドゥーの大きな寺があります。
さらに、もう一方には、カトリックの大きな教会もあるといいます。
ここでは、すべての宗教が共存しています。
宗教によって国が分裂してしまったことについて、ナイルさんはとても寂しいことだと話します。