今日のテーマは、「第一次世界大戦」。
日露戦争から10年後、1914年に始まった第一次世界大戦のころの歴史を学んでいきましょう。この第一次世界大戦には、ヨーロッパの荒廃、アメリカの台頭、ソ連の出現などの特徴があり、その意味で世界史の中の大きな転機といえます。
イギリスの歴史家ホブスボームは、戦争と革命、そして平和が交錯する20世紀がここから始まったという見方をしています。
一方日本は、大戦を通してアジア・太平洋にさらに膨張していきました。つまりより大きな帝国へと拡大していったのです。


ポイント(1)まず第一次世界大戦についてみてみましょう。
1914年6月。ヨーロッパ東部、ボスニアの首都サラエヴォで事件が起きました。
この地を訪れていたオーストリアの帝位継承者夫妻が、隣の国セルビアの青年に暗殺されたのです。当時、民族紛争で緊張していた東ヨーロッパでは、この事件をきっかけに、オーストリアとセルビアが戦争を始めます。
これに他の大国の利害が絡み合い、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなども次々と参戦していきました。「第一次世界大戦」です。
ヨーロッパは当初、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、イタリアを中心とする同盟国側とイギリス、フランス、ロシアを中心とする連合国側が戦いました。
この戦いは、国家がすべての力を戦争につぎ込む、総力戦となりました。
さらに、これまでなかった新しい兵器が使われました。
飛行機や戦車。潜水艦や毒ガスです。
この第一次世界大戦は、ヨーロッパでは、軍人の戦死者がおよそ900万、さらに400万と言われる一般市民が犠牲になるという、悲惨な戦争となりました。


日本は、イギリスと日英同盟を結んでいたことを根拠に、この戦争に参戦します。
当時、ドイツは中国の山東半島に鉄道や鉱山などの権益を持っていました。日本は、ドイツを攻め、これらの権益を手に入れようと考えたのです。
そして1914年8月、ドイツに宣戦を布告しました。
9月には、山東半島に日本軍が上陸し、アジアでのドイツの拠点だった青島を占領しました。
日本が参戦した理由を考えるため、大戦前の日本の状況を見てみましょう。
実は日本は二つの大きな課題を抱えていました。
一つは、「一等国」として軍備拡張を続けたことです。その結果、増税路線も継続することになりましたが、国民からは税の廃止や減税を求める運動が高まることになりました。
そして第二は、イギリス、アメリカなどへの負債、つまり借金が増え、また貿易赤字にも苦しんでいたということです。
こうして行きづまっていた日本の前に起きたのが第一次世界大戦だったのです。
例えば、当時78歳だった元老の井上馨は次のように言っています。
「今回欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑。」
「東洋に対する日本の利権を確立せざるべからず」
天佑とは天の助けという意味ですが、大戦に参戦することで国の内外のさまざまな問題を一挙に打開していこう、あるいは打開できると考え、その意味で天佑と言ったのです。そして、アジアにさらに大きく進出していくべきだとも言っています。
当時ドイツは中国では山東半島の膠州湾(こうしゅうわん)地域を1898年から租借していました。また太平洋では、19世紀末にスペインから購入したマーシャル諸島、カロリン諸島、アメリカ領のグアムを除くマリアナ諸島などを支配していました。
日本の軍部や加藤高明外相は、連合国側に立って参戦することで、これらの地域を手に入れようと強く望んでいたのです。
日英同盟の趣旨からすると必ずしも参戦しなければならないわけではありませんでした。日本の思惑については、イギリスやアメリカ、そして中国から懸念が出されました。しかし日本は日英同盟を盾にとる形で、1914年8月、開戦から1か月後に、かなり強引にドイツに宣戦布告したのです。
日本はまず山東半島に兵を送り、青島のドイツ軍を降伏させました。またドイツが経営していた山東鉄道も占領しました。一方海軍は南洋諸島に艦隊を派遣して10月には占領し、この地域に軍政を敷きました。つまり軍が統治に当たったのです。
そしてもう一つの大きな出来事が、ポイントにある中国への「二十一か条要求」です。
これについて見る前に、当時の中国の状況を確認しておきましょう。


20世紀初めの中国では、列強の国々が権益をいっそう拡大しようとしていました。
1911年1月、孫文率いる革命派が、清朝の打倒を目指して、中国南部で武装蜂起しました。「辛亥革命」の始まりです。この動きは、中国各地に広がっていきました。
翌1912年1月。孫文は中華民国の樹立を宣言。「臨時大総統」に就任します。
しかし、清朝に代わって全土を支配できるまでには至りませんでした。清朝で実権を握っていた袁世凱(えんせいがい)が孫文の前に立ちはだかったのです。
袁世凱は、清朝の皇帝を退位させます。
そしてそれと引き換えに、自らが孫文を抑えて、中華民国の初代・大総統となったのです。
袁世凱は、青島を占領する日本軍に撤退を求めます。しかし日本はそれを拒否。
1915年1月、袁世凱に対して「二十一か条の要求」を突きつけたのです。
それでは二十一か条の要求の主な内容を見てみましょう。
(1)山東省のドイツ権益の日本への引渡し
(2)旅順・大連の租借期限と南満州鉄道の権益の期限をそれぞれ99か年間に延長すること。これはいずれも日露戦争で日本がロシアから獲得したものです。
(3)漢冶萍公司(かんやひょうこんす)の日中共同経営
漢冶萍公司は1908年に設立された中国最大の製鉄企業です。この経営に日本も参加させろというのです。
(4)中国沿岸の港湾・島しょ(=島々)の他国への不割譲
(5)日本人の政治・財政・軍事顧問を採用すること、警察を日中合同にすること
さすがにこの五号要求には国際的にも、また日本国内の政治家からも批判が出されました。
日本はこの五号要求以外の主な要求を、中国側に最後通牒をつきつけて受け入れさせたのです。
当時の中国では、受諾した5月9日を国恥記念日、つまり国の恥を心に刻む日としただけでなく、日本製品の不買運動も起こりました。
また中国の新聞「北京日報」は次のように書きました。
日本の要求は「列強ノ嫉妬ヲ招キ内ハ支那人ノ憤心ヲ激」するもので、日本は「世界ノ公敵」となり、「他日必ス命ヲ賭スル日アルナリ」
中国から「世界の敵」と言われるまでになってしまったように、中国の問題をめぐって日本は大きな課題を背負うことになったのです。


第一次世界大戦の結果、どうなっていったのかが、次のポイント(2)です。
1919年6月、第一次世界大戦を終わらせる講和条約が、フランスのパリ郊外、ヴェルサイユ宮殿で調印されました。
日本は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアとともに5大国の一員として参加。元首相の西園寺公望らが出席しました。
この条約で日本は、膠州湾の統治権や鉄道など、山東半島におけるドイツの権益を引き継ぐことを認められました。しかし、中国はこの条約に調印しませんでした。
講和会議の最中の1919年5月4日。日本が山東半島の権益を求めたことで、中国では大規模な反日運動が起こりました。学生などが天安門広場で集会を開き、反日のスローガンを掲げて立ち上がったのです。「五四運動」です。
中国各地で、学生の授業ボイコット、労働者のストライキ、商店の閉店や日本商品の不買運動などが起こりました。
第一次大戦中、日本は中国だけではなく、太平洋の島々にも進出しました。1914年、ドイツ領だったマリアナ諸島、パラオ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島など南洋の島々を占領したのです。
1920年には、ヴェルサイユ条約に基づいて日本が統治することになりました。
パラオ諸島のコロール島に「南洋庁」が作られ、島々に6つの支庁が置かれました。
以降、日本は人々の暮らしや教育などを「日本化」する政策をとりながら、20年以上にわたって統治を続けていくことになります
実は中国も途中から参戦して戦勝国の一員でした。その立場で講和会議に参加し、山東半島でドイツが持っていた権益は当然、中国に返還されるべきだと主張しました。
これに対し日本は、日本の手を経て中国に返還すると声明して、いったん日本が引き継ぐ形を受け入れさせました。そうすると、今見たように五四運動と呼ばれる反日運動が起きるということもあり、中国代表は講和条約に結局、調印しませんでした。つまり山東問題は宙に浮いた形となったのです。
また日本が占領した赤道より北のドイツ領の南洋諸島について、日本は、国際連盟から統治を任されました。これを「委任統治」といいます。
1920年に南洋諸島の委任統治が始まり、日本の法律に基づいて統治されることになりました。(ただし軍事施設の設置は禁止されていました。)
1922年にはパラオ諸島のコロール島に南洋庁という役所が設置され、民政に移行しました。そして南洋庁は、移民の奨励、産業の振興、教育の奨励を進めました。
産業というと、サトウキビや、油が取れるココヤシ(石けんの材料)の栽培、かつおぶしの製造などがありました。移民としては、沖縄からたくさんの人が南洋諸島にわたっていきました。
教育に関しては、こちらを見てください。
これは『国語読本』という日本語の教科書です。委任統治が決まる前に既に島の児童に日本語を「国語」として教えようとし、そのためにこの教科書を作ったのです。
巻2の第5課「ガッコウ」のページにはこう書いてあります。
「センセイノオシエヲマモッテ イッショウケンメイニベンキョウスレバ ハヤクヨイニホンジンニ ナルコトガデキマス・・・」
ただし、日本語は教えられても日本国籍は与えられませんでした。
ポイントにあったワシントン体制についてですが、第一次世界大戦を通して日本が中国や太平洋に進出したことに対し、諸外国からはこれまで見たようにさまざまな不安や批判がありました。そして、アジア・太平洋地域で日本を含めた関係国が利害を調整し、行動に枠を設けるために開かれたのが、1921~22年にかけてのワシントン会議でした。
ワシントン会議では中国に関してまず九か国条約が結ばれました。
調印したのは、米・英・仏・伊・蘭・中国・ベルギー、ポルトガル、日本の9か国でした。
その内容は、中国の主権、独立ならびに領土的、行政的保全を尊重することが盛り込まれました。これは中国の独立国としての立場を尊重し、その領土や、領土内での支配権を尊重するということです。
そしてもう一つ大きな内容が、中国における各国民の機会均等主義を維持すること、でした。つまり、ある国だけが中国で独占的利権を得ることは、機会均等に反するとして否定されました。そこにこの条約の最大の意味があったといえます。
この条約の趣旨に沿って中国と日本の全権が交渉し、山東省の旧ドイツ権益は中国に返還すること、日本軍は撤兵することが決められました。
また、太平洋海域で列強の利権をお互いに侵さないようにしようということで、四か国条約も結ばれました。これは日本、アメリカ、フランス、イギリスの間で結ばれたもので、太平洋の現状維持を目的としていました。
日露戦争から10年後、1914年に始まった第一次世界大戦のころの歴史を学んでいきましょう。この第一次世界大戦には、ヨーロッパの荒廃、アメリカの台頭、ソ連の出現などの特徴があり、その意味で世界史の中の大きな転機といえます。
イギリスの歴史家ホブスボームは、戦争と革命、そして平和が交錯する20世紀がここから始まったという見方をしています。
一方日本は、大戦を通してアジア・太平洋にさらに膨張していきました。つまりより大きな帝国へと拡大していったのです。


ポイント(1)まず第一次世界大戦についてみてみましょう。
1914年6月。ヨーロッパ東部、ボスニアの首都サラエヴォで事件が起きました。
この地を訪れていたオーストリアの帝位継承者夫妻が、隣の国セルビアの青年に暗殺されたのです。当時、民族紛争で緊張していた東ヨーロッパでは、この事件をきっかけに、オーストリアとセルビアが戦争を始めます。
これに他の大国の利害が絡み合い、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなども次々と参戦していきました。「第一次世界大戦」です。
ヨーロッパは当初、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、イタリアを中心とする同盟国側とイギリス、フランス、ロシアを中心とする連合国側が戦いました。
この戦いは、国家がすべての力を戦争につぎ込む、総力戦となりました。
さらに、これまでなかった新しい兵器が使われました。
飛行機や戦車。潜水艦や毒ガスです。
この第一次世界大戦は、ヨーロッパでは、軍人の戦死者がおよそ900万、さらに400万と言われる一般市民が犠牲になるという、悲惨な戦争となりました。


日本は、イギリスと日英同盟を結んでいたことを根拠に、この戦争に参戦します。
当時、ドイツは中国の山東半島に鉄道や鉱山などの権益を持っていました。日本は、ドイツを攻め、これらの権益を手に入れようと考えたのです。
そして1914年8月、ドイツに宣戦を布告しました。
9月には、山東半島に日本軍が上陸し、アジアでのドイツの拠点だった青島を占領しました。
日本が参戦した理由を考えるため、大戦前の日本の状況を見てみましょう。
実は日本は二つの大きな課題を抱えていました。
一つは、「一等国」として軍備拡張を続けたことです。その結果、増税路線も継続することになりましたが、国民からは税の廃止や減税を求める運動が高まることになりました。
そして第二は、イギリス、アメリカなどへの負債、つまり借金が増え、また貿易赤字にも苦しんでいたということです。
こうして行きづまっていた日本の前に起きたのが第一次世界大戦だったのです。
例えば、当時78歳だった元老の井上馨は次のように言っています。
「今回欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑。」
「東洋に対する日本の利権を確立せざるべからず」
天佑とは天の助けという意味ですが、大戦に参戦することで国の内外のさまざまな問題を一挙に打開していこう、あるいは打開できると考え、その意味で天佑と言ったのです。そして、アジアにさらに大きく進出していくべきだとも言っています。
当時ドイツは中国では山東半島の膠州湾(こうしゅうわん)地域を1898年から租借していました。また太平洋では、19世紀末にスペインから購入したマーシャル諸島、カロリン諸島、アメリカ領のグアムを除くマリアナ諸島などを支配していました。
日本の軍部や加藤高明外相は、連合国側に立って参戦することで、これらの地域を手に入れようと強く望んでいたのです。
日英同盟の趣旨からすると必ずしも参戦しなければならないわけではありませんでした。日本の思惑については、イギリスやアメリカ、そして中国から懸念が出されました。しかし日本は日英同盟を盾にとる形で、1914年8月、開戦から1か月後に、かなり強引にドイツに宣戦布告したのです。
日本はまず山東半島に兵を送り、青島のドイツ軍を降伏させました。またドイツが経営していた山東鉄道も占領しました。一方海軍は南洋諸島に艦隊を派遣して10月には占領し、この地域に軍政を敷きました。つまり軍が統治に当たったのです。
そしてもう一つの大きな出来事が、ポイントにある中国への「二十一か条要求」です。
これについて見る前に、当時の中国の状況を確認しておきましょう。


20世紀初めの中国では、列強の国々が権益をいっそう拡大しようとしていました。
1911年1月、孫文率いる革命派が、清朝の打倒を目指して、中国南部で武装蜂起しました。「辛亥革命」の始まりです。この動きは、中国各地に広がっていきました。
翌1912年1月。孫文は中華民国の樹立を宣言。「臨時大総統」に就任します。
しかし、清朝に代わって全土を支配できるまでには至りませんでした。清朝で実権を握っていた袁世凱(えんせいがい)が孫文の前に立ちはだかったのです。
袁世凱は、清朝の皇帝を退位させます。
そしてそれと引き換えに、自らが孫文を抑えて、中華民国の初代・大総統となったのです。
袁世凱は、青島を占領する日本軍に撤退を求めます。しかし日本はそれを拒否。
1915年1月、袁世凱に対して「二十一か条の要求」を突きつけたのです。
それでは二十一か条の要求の主な内容を見てみましょう。
(1)山東省のドイツ権益の日本への引渡し
(2)旅順・大連の租借期限と南満州鉄道の権益の期限をそれぞれ99か年間に延長すること。これはいずれも日露戦争で日本がロシアから獲得したものです。
(3)漢冶萍公司(かんやひょうこんす)の日中共同経営
漢冶萍公司は1908年に設立された中国最大の製鉄企業です。この経営に日本も参加させろというのです。
(4)中国沿岸の港湾・島しょ(=島々)の他国への不割譲
(5)日本人の政治・財政・軍事顧問を採用すること、警察を日中合同にすること
さすがにこの五号要求には国際的にも、また日本国内の政治家からも批判が出されました。
日本はこの五号要求以外の主な要求を、中国側に最後通牒をつきつけて受け入れさせたのです。
当時の中国では、受諾した5月9日を国恥記念日、つまり国の恥を心に刻む日としただけでなく、日本製品の不買運動も起こりました。
また中国の新聞「北京日報」は次のように書きました。
日本の要求は「列強ノ嫉妬ヲ招キ内ハ支那人ノ憤心ヲ激」するもので、日本は「世界ノ公敵」となり、「他日必ス命ヲ賭スル日アルナリ」
中国から「世界の敵」と言われるまでになってしまったように、中国の問題をめぐって日本は大きな課題を背負うことになったのです。


第一次世界大戦の結果、どうなっていったのかが、次のポイント(2)です。
1919年6月、第一次世界大戦を終わらせる講和条約が、フランスのパリ郊外、ヴェルサイユ宮殿で調印されました。
日本は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアとともに5大国の一員として参加。元首相の西園寺公望らが出席しました。
この条約で日本は、膠州湾の統治権や鉄道など、山東半島におけるドイツの権益を引き継ぐことを認められました。しかし、中国はこの条約に調印しませんでした。
講和会議の最中の1919年5月4日。日本が山東半島の権益を求めたことで、中国では大規模な反日運動が起こりました。学生などが天安門広場で集会を開き、反日のスローガンを掲げて立ち上がったのです。「五四運動」です。
中国各地で、学生の授業ボイコット、労働者のストライキ、商店の閉店や日本商品の不買運動などが起こりました。
第一次大戦中、日本は中国だけではなく、太平洋の島々にも進出しました。1914年、ドイツ領だったマリアナ諸島、パラオ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島など南洋の島々を占領したのです。
1920年には、ヴェルサイユ条約に基づいて日本が統治することになりました。
パラオ諸島のコロール島に「南洋庁」が作られ、島々に6つの支庁が置かれました。
以降、日本は人々の暮らしや教育などを「日本化」する政策をとりながら、20年以上にわたって統治を続けていくことになります
実は中国も途中から参戦して戦勝国の一員でした。その立場で講和会議に参加し、山東半島でドイツが持っていた権益は当然、中国に返還されるべきだと主張しました。
これに対し日本は、日本の手を経て中国に返還すると声明して、いったん日本が引き継ぐ形を受け入れさせました。そうすると、今見たように五四運動と呼ばれる反日運動が起きるということもあり、中国代表は講和条約に結局、調印しませんでした。つまり山東問題は宙に浮いた形となったのです。
また日本が占領した赤道より北のドイツ領の南洋諸島について、日本は、国際連盟から統治を任されました。これを「委任統治」といいます。
1920年に南洋諸島の委任統治が始まり、日本の法律に基づいて統治されることになりました。(ただし軍事施設の設置は禁止されていました。)
1922年にはパラオ諸島のコロール島に南洋庁という役所が設置され、民政に移行しました。そして南洋庁は、移民の奨励、産業の振興、教育の奨励を進めました。
産業というと、サトウキビや、油が取れるココヤシ(石けんの材料)の栽培、かつおぶしの製造などがありました。移民としては、沖縄からたくさんの人が南洋諸島にわたっていきました。
教育に関しては、こちらを見てください。
これは『国語読本』という日本語の教科書です。委任統治が決まる前に既に島の児童に日本語を「国語」として教えようとし、そのためにこの教科書を作ったのです。
巻2の第5課「ガッコウ」のページにはこう書いてあります。
「センセイノオシエヲマモッテ イッショウケンメイニベンキョウスレバ ハヤクヨイニホンジンニ ナルコトガデキマス・・・」
ただし、日本語は教えられても日本国籍は与えられませんでした。
ポイントにあったワシントン体制についてですが、第一次世界大戦を通して日本が中国や太平洋に進出したことに対し、諸外国からはこれまで見たようにさまざまな不安や批判がありました。そして、アジア・太平洋地域で日本を含めた関係国が利害を調整し、行動に枠を設けるために開かれたのが、1921~22年にかけてのワシントン会議でした。
ワシントン会議では中国に関してまず九か国条約が結ばれました。
調印したのは、米・英・仏・伊・蘭・中国・ベルギー、ポルトガル、日本の9か国でした。
その内容は、中国の主権、独立ならびに領土的、行政的保全を尊重することが盛り込まれました。これは中国の独立国としての立場を尊重し、その領土や、領土内での支配権を尊重するということです。
そしてもう一つ大きな内容が、中国における各国民の機会均等主義を維持すること、でした。つまり、ある国だけが中国で独占的利権を得ることは、機会均等に反するとして否定されました。そこにこの条約の最大の意味があったといえます。
この条約の趣旨に沿って中国と日本の全権が交渉し、山東省の旧ドイツ権益は中国に返還すること、日本軍は撤兵することが決められました。
また、太平洋海域で列強の利権をお互いに侵さないようにしようということで、四か国条約も結ばれました。これは日本、アメリカ、フランス、イギリスの間で結ばれたもので、太平洋の現状維持を目的としていました。