【HK9S/EDUCE/002】◎日露戦争◎ | HK5STUDIO/CONVENI

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大国ロシアとの戦い・日露戦争で日本は88,000人もの戦死者を出しましたが、満州=中国東北部の権益を獲得し、韓国を併合して植民地としました。戦争の背景、国民・特に女性たちの戦争へのかかわり方、そして戦争の結果など、日露戦争をさまざまの面から考えます。
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今日のテーマは、「日露戦争」です。以前、日清戦争を学びました。今度はロシアとの戦争です。ロシアという大国を相手にどんな戦争をしたのでしょうか。
日露戦争は、前に学習した日清戦争から10年後、1904年に始まった戦争です。この戦争は日清戦争の何倍もの規模で行なわれ、その結果日本はアジア大陸の一角に勢力圏を持つ国家となりました。その後の歴史にも大きな影響を及ぼした日露戦争を、今日は幾つかの面から考えていきたいと思います。
それでは、今日のポイントです。
(1)戦争の背景
日露戦争がなぜ起こったのか、その背景を考えていきます。特に、日本とイギリスとの同盟=日英同盟が大きな後押しになったことを見ていきたいと思います。
(2)国民と戦争
日露戦争は兵士だけでなく国民全体に大きな犠牲を強いる戦争でした。その中で、戦争に反対する主張がさまざまな立場からなされました。そのうちキリスト教の信者の内村鑑三を取り上げてみたいと思います。また、戦争に女性たちはどう関わったのかも見ていきます。
(3)戦争の結果
戦争の結果、日本は韓国を保護国とし、やがて植民地としました。また日本の勢力圏となった満州をめぐってイギリス、アメリカとの対立も生じてきました。そのあたりを見ていきます。
では、ポイント(1)「戦争の背景」ですが、まずこれについて見ていくことにしましょう。
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清国は日清戦争後、ドイツやロシア、イギリス、フランスなどの列強の国々がそれぞれに勢力圏を設け、半ば植民地のような状態になりました。
これに対して清国内では、民衆宗教義和団を中心に「扶清滅洋=清朝を助け、西洋を滅ぼせ」を掲げた外国人襲撃運動が起こります。清朝政府もこれを支持し、1900年、列強に宣戦を布告しました。
これに対して、イギリス、アメリカ、日本など8か国が出兵し、乱を鎮圧しました。この事件は義和団事件と呼ばれます。
ところが出兵した国の一つロシアは満州=中国東北部を事実上占領してしまいます。
その名目は、ロシアが満州地域で中国から租借していた鉄道を守るためというものでした。
満州に駐兵を続けるロシアは、日本にとっても大きな脅威となりました。また、中国に大きな利権を持っていたイギリスも、自国の権益と衝突すると考えました。
こうした中、1902年、日本とイギリスは日英同盟協約を結びます。
条約には、朝鮮半島と中国大陸で互いの利権を認め合う内容が盛り込まれました。この同盟によって日本では、ロシアと戦おうという世論が高まっていきます。
1903年、ロシアとの戦争を回避しようと考えていた元首相の伊藤博文がロシアに赴き、皇帝ニコライ2世と会見しました。しかし、交渉は失敗に終わります。
日本の安全のためには、朝鮮半島からロシアを駆逐する必要があるとして、小村寿太郎外相は、1904年2月6日、ロシアに国交断絶を言い渡しました。
2月8日、日本軍は、韓国と中国の旅順で軍事行動を開始。2月10日、双方が宣戦を布告して、日露戦争が始まったのです。
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日露戦争開戦後、アメリカに特使として派遣され、日本の戦争への協力を呼びかけたのはだれ?→金子堅太郎
千葉県の我孫子市にある「黒髪塚」とはどのような塚?→夫が出征中の妻たちが、家庭を守る覚悟を示すために髪を切り、夫たちの帰国後に記念の塚を建てたもの。
日露戦争が終わった後、「日本が門戸開放・機会均等を尊重しなければ欧米は日本に不信を抱く」と懸念を述べた人物は?→伊藤博文