朝7:00にパッと起床、心なしか部屋が魚クサいw (´゚ё゚) クサッ
10:00、チェックアウトを済ませ荷物を車に積んだら、車は駐車させたまま
歩きで駅の反対出口方面に向かいます。
雨、降っていません グッ
長岡駅
新幹線も停まる大きな駅。
実はここ、長岡城だった場所です。
なんと、長岡駅はその城跡に建っています!
今いるここ、本丸跡だってよ (・エ・)
この案内碑以外、城の形跡なんてなにもありません
私は今、駅のロータリーにいながら城跡にいます。
長岡城は平城で、天守閣とか堀とか、城を思わせる一切のものがありません。
想像力を最大限に駆使してください。
登城イメージ
雪深いのムリ~
長岡の街は、幕末の戦火・第二次大戦の空襲と、2回も焼け野原になっている
そうです。
今いるここら辺一帯が2度燃えました。
北越戊辰戦争
西郷隆盛や黒田清隆も戦地に赴いた北越戦争。新政府軍と対立した長岡藩は、
「武装中立論」を唱えて会津藩とも当初は行動を共にしていなかった。
この論を唱えたのは筆頭家老であった河井継之助で、江戸藩邸を引き払う際に
藩主の牧野家が所有する家宝などを売却。それを資金にして最新鋭の武器である
「ガトリング砲」を2門購入するなどして武装体制を整えていた。
慶応4(1868)年5月2日、小千谷の慈眼寺で新政府軍の軍監である岩村精一郎と
河井継之助が談判。しかし、交渉は決裂して長岡藩と新政府軍との戦闘が開始される
ことになる。こうして長岡藩は、ようやく会津藩らと同盟を組むことになり、
北越全体を巻き込む全面戦争に突入する。
この激戦の現場には、西郷隆盛の弟である吉二郎もいた。
北越戊辰戦争
相当の激戦だったらしい
会津の激戦は有名でも、ここ越後の激戦はあまり有名じゃありませんよね。
何故か?
そーれはね、新政府軍の黒歴史 だからだよー☆ (・∀・)b
こっぴどくやられたのw
それはもう言語に絶するほどにww
最終的には勝ったけど、新政府軍にとって越後はトラウマなんですねー (;;ಠ;益;ಠ;)
そもそも薩長以外の寄せ集め藩は、義のないこの戦に端っからやる気なんかある
はずもなく。
それを見た薩長が「ダメだこりゃ」って、それで自藩ばかり登用するようになるのですね。
ちなみに長岡市のマークは、2度の戦火の中から甦った不死鳥のイメージらしい
ですよ。
長岡は「米百俵の精神」でも有名ですね。
ちょうどこの駅の周辺を歩いてて気付いたの、道路も歩道もやたら
赤褐色だな~って。
アスファルトが鉄でコーティングされてるみたい。
不思議な情緒の街だな~って。(゚O゚) ホヘェ~
駅から歩く事5分くらいでしょうか、目的の場所に到着です。
河井継之助記念館
北越戊辰戦争を語るうえで欠かせない人物こそが、そう、この人。
河井継之助
キタァ━(゚∀゚)( ゚∀)超( ゚)絶( )大(゚ )興(∀゚ )奮(゚∀゚)━ッ!!!
越後の風雲児、河井継之助
侍の世の終わりを知りつつ、侍でありつづけた男
長岡藩の家老であり、財務担当でもあり、軍事総督でもあります。
坂本龍馬は知ってても、吉田松陰は知ってても、土方歳三は知ってても
河井継之助を知ってる人はなかなかいませんよね。
なんで知られてないかって、それはしがない地方の中小藩だからです。
長岡藩ってw
どこの豪雪地帯だよww ( ´,_ゝ`) プッ
そこの家老です。
脱藩していません。
藩のために行動します。
学問ばっかしてました。
遊郭にも通いつめました。
財政を立て直しました。
いわば、枠にとらわれた侍です。
でもこの人、7万4千石しかない中小藩のくせに新政府軍をかなり苦しめます。
やむを得ず参戦した戦で、
巧みな采配を振るって、
圧倒的な軍事力の新政府軍に
大ダメージ&トラウマを与えたのです!
頭でっかちじゃなく、実戦もできるのです!
しかしながら地方の中小藩が「武装中立」を目指すも、時代のうねりに飲み込まれ
見果てぬ夢に終わったのです。。。(TдT)
幕末マニアは素通りできない、ラストサムライなのです!
< 河井継之助 >
文政10年1月1日生まれ。越後長岡藩士。江戸で斎藤拙堂、古賀謹一郎、佐久間象山に
まなぶ。慶応3年藩執政となり藩政の改革を断行。翌年家老上席にすすむ。
戊辰戦争では中立の立場をとろうとしたが新政府軍にみとめられず戦闘にはいる。
長岡城の攻防で負傷、慶応4年8月16日没した。42歳。
利かん気が強く、合理的な考えの持ち主だったそう。
アタイ、正直、歴史上の人物で好きなキャラってこれといっていないのね。
でも強いてあげるなら、この河井継之助とハンニバル先輩(ポエニ戦争、カルタゴの名将)
この2人かな?
なるほど、奇抜な発想で奇襲をかける名将が好きなのか。
ちなみにアタイは新政府軍派でも幕府派でもありません、中立です。
誰にも肩入れしません。
ただ!
この人には組織の長ならではの苦悩葛藤がある!
そこに萌えがある! (*`ω´)
入館料¥200を支払って入りましょう。
狭い館内にはボランティアさんの説明を受ける団体さんが。
過ぎるのを待ちましょう。
ガトリング砲
アメリカ南北戦争で発明された手動機関銃。
中心軸の周りに数本の銃身をつけ、後ろ脇にあるハンドルを回すと、一対の傘歯車を介して
銃身が回転。1分間に200~300発の連射が可能。
もちろん複製です。
本物はどっかいっちゃいましたw
当時、継之助は大金はたいてこれを2門購入しています。
他にも大砲30門や西洋式銃などを全藩士ぶん購入、兵学所を整備。
完全なる武装ですww
新政府軍に目をつけられても不思議じゃありませんw
実は最新武器を買い揃えられるくらい、藩財政を立て直していました。
手腕スゲー☆ (・∀・)
ここを回すと連射されます。
継之助みずから、大手門前で連射していますw
萌えるわ… (*´Д`) ハァハァ
ここは継之助の屋敷跡に建つそうで、ガトリング砲(複製)以外には継之助直筆の
書がいくつか展示されています。
なかなか綺麗な字を書く人、ちょっとイメージと違った。
あとはこれといった貴重な資料や展示物はないかな。
司馬遼太郎の『峠』映画化で来年公開とのことで、小説や映画関連の資料ですかね。
長くなりそうなので一旦ここで〆。
次は北越戊辰戦争の萌えポイントについて記述します。
…って、明日は月末じゃーん!
月末事務処理作業があるってのー!
が、頑張る… (;-_-)
To Be Continue...