「誠心」を繋ぐ鑑定師の河村ジュンです(^^)
「負袋為従者率往来」(ふくろをしよいともびととなりていきき)
これは大国主命(大黒さま)の御姿勢について、古事記に書かれている一文です。
いきなりですが、
大国主命が背負う、あの大きな袋の中身。想像されたことはありますか?
ある人は、こう申しました。
「あの大きな袋の中身は八十神(やそがみ)たちの首が入っている。
同じ兄弟でありながら、大国主命に異を唱え続け、嫉妬と憎しみで攻撃ばかりに明け暮れる兄たちの御霊(みたま)を鎮めるため、すべての悲しみや恐怖、それらを一身に背負われたのであろう。」
と、いや・・中々に想像力が豊かな方でありますσ(^_^;)
もちろん古事記には、そのようなことは一切書かれておりませんので全て、この発言された方の心で感じた、ありのままを言葉に表しただけ。
私はそれを聴いて、素直に面白いなぁと思いました。
と言うのも、私自身、古事記などの書物は読んだままを頭に浮かべることに意味があるのではない、と感じるからです。
大切なのは、「読む」のではなく、「読み解く」こと。ここに尽きます。
また、解かねば先人が残してきたものの深み、真髄に近づくことはできません。
この世の中のすべての物事には必ず表と裏があります。
書物に並べられる文字は表であり、その奥の真髄としてあるものが裏になるのでしょう。
但し、私たちの目には表しか見えません。ひっくり返すか、自分が裏に回ってみるかしないと永遠に気づかないものです。
また、表は「見るもの」あるいは、「見えるもの」であり、裏は「観るもの」もしくは「観えるもの」と言っても差し支えないでしょう。それほどの違いがある。
そうやって考えますと、先ほどの袋の中身は八十神(やそがみ)たちの首が入っている・・云々の話は、中々面白いではないか!となるわけです。
もちろん歴史は正しく認識する必要はありますが、だからといって真偽を確かめるための術が常に使えるとは限りません。
余談になりますが、
私も一時期、自分のところの家系が気になったことがあり、父方・母方それぞれに戸籍謄本から菩提寺までと御先祖さまを辿ったことがありました。そしてすぐに限界が来てしまいました・・
お寺で保管していた記録が火事で焼けたとか、そんな理由で私を含めて7代前になると名前すら分からないのです。わかっているのはその頃が江戸時代だったということだけ・・
私の知り合いは、15代前の御先祖がわかるそうで、家系図があったのが幸いだったと申しておりました。でも、それ以前はどこでどうしていたか?今さら辿るのは難しいだろうな、と。
中には桓武天皇からの血筋だという家系図(立派な巻物でした!)を見せてもらったことがありますけど、こちらの真偽は?もちろんわかりません(笑)(^_^;)
閑話休題。
大国主命の背負う袋の中身ですが、私はここに日本人の資質を感じてしまいます。八十神(やそがみ)の首が入っているという想像が面白いと感じたのも、実はそういう思いがあってのことなのです。
古事記を読むとわかりますが、大国主命という神様は、それはそれは大変な試練をお受けになります。
因幡の白兎に始まり、赤猪抱き、素戔嗚尊との出会いなどを経て、あの有名な国譲りのお話まで、ざっと言うのは容易いですが、その一つ一つを読み解くと、本当に試練の日々に生きた神様だということがわかります。
また、大国主命という名前の示すような英雄となるほどの偉大な方だからこそ、国の大事業のみならず、身近な家族のことでも大いに悩まれ、心を磨かれる。まさに忍耐、鍛錬、清き明き心なくして為しえぬことばかり。
私たち子孫にとって、大国主命は偉大な神様という印象で終わらせてはならないのです。
どんな苦しい状況下であっても笑みを絶やさず、自ら袋を背負われる、その御姿勢に学ばなければ本当に勿体ないのです。
大国主命の笑みは、爽やかであり、清らかであり、力強い笑みなのです。
今の時代に生きる人々の中には、笑みに力がなく、どちらかというと曖昧であり、ふわふわだったり、媚びであったり、誤魔化しだったり、そんな卑しさを感じてしまう人もいます。
本来の日本人には、そんな卑しさを包み隠すための笑みなど存在しなかったのではないでしょうか。
人生は、曖昧では生きられない。
息をすることは出来ても、心は生きられない。
心が生きられなければ、それは人間として生きる意味がない。
心の底から笑える人だから、人生は大いに豊かなものとなる。その実感こそ命!
私の愛読書に「新釈古事記伝」がありますが、その中の第一巻に「袋背負いの心」(ふくろしよいのこころ)というのが出てきますので、次回はこちらを参考にさせて頂きながら、私の意見を書いてゆけたらと思っておりますm(_ _)m
よろしくお願いいたします。
感謝と敬意を込めて。
弥栄!!