先日(2/27)、お友達とランチを食べながら、

春の旅行の打ち合わせをした後、

大乗寺丘陵公園の椿園でも見に行こうと

車で出かけたのですが、

大乗寺丘陵公園は、冬期(1・2月)及び

降雪時は閉鎖していて、駐車場にも入れませんでした。


歩いて入るのは年中OKなので、

車を近くに路駐して、椿園を覗いてみましたが、

花が盛んに咲いていたのはこの木だけでした。



前日が猛吹雪だったせいか、

奥には花が地面にたくさん落ちている木もありましたし、

まだまだ蕾の状態の木もいっぱいあり、

ここの椿園は一斉に咲くと言うより、

多品種を楽しむ感じなので、咲く時期がバラバラです。


とりあえず頂上付近の駐車場にも行きましたが、

やはり閉鎖されて入れなかったので、

道路を挟んで向かいにあった野田山墓地の駐車場で、

Uターンをさせてもらったのですが、

そこで突然思い出してしまった前田家墓所。


前から一度行ってみたかったのですが、

朝の散歩で行こうと思うと、初めてなので、

薄暗い山の中を一人で探しながら歩くのも怖いし、

なんと、去年はクマさんも出没した所なので、

やっぱり無理だわ・・・と断念していました。


とりあえず、どの辺にあるのかなあと、

野田山墓地の地図を確認したら、

この場所から意外と近いことが判明。

見にくいですが、地図の黄色いが現在地で、

赤いが前田家墓所の場所。



車ならすぐだと思って、

どんな所なのか行ってみようか~ということに。

まさか墓地へ行くことになろうとは、

思ってもみませんでした。


野田山墓地は、金沢城から直線距離にして

南西に約3.5kmほど離れた所に広がる一大霊園地。

野田山は標高約175m、その山頂から山腹に広がる

墓地の総面積は43万㎡で、兼六園の約4倍。


車を降りると、まずこんな看板がありました。



これから先には前田家墓地参道があり

静粛に願います。

また足元が滑りますので、十分にご注意下さい。

なお、墓地柵内へのご入場はご遠慮下さい。



このように、まだ雪があちこちに残っていて、

凍ってはいないのですが、

何しろ突然のことで普通のスニーカー履きだったので、

坂道はよちよち小股歩きとなりました。



ここで墓地の詳細な地図を載せておきます。



私たちは右上の1~6のお墓を見に行きました。

最初に見えて来たお墓だけは柵などもなく、

石碑によると「前田道貞」と書いてありましたが、

藩主でもないし、誰かなあ~?



今回は冬の墓地ということで、珍しいとは思いますが、

はっきり言ってどんなお墓かわかりにくいと思いますので、

Webより2012年4月に撮影された写真を拝借します。



ここで前田家墓地についてご紹介します。


野田山墓地の最も標高の高い一角に、

江戸時代の加賀藩主前田家の歴代当主をはじめ

その正室、子女などの近親者たちが眠る

前田家墓所があります。


前田家の墓はいずれも土を高く盛り上げた

土饅頭(どまんじゅう)形式で、

特に藩主とその正室の墓は四角形の土檀(どだん)を

階段状に重ねた特徴的な外観をしており、

一見すると古墳時代の方墳によく似たものとなっています。


墓の周囲には溝を廻らせて外界と墓域を区画しており、

大きさも、利家墓で一辺約19m、

他の藩主墓でも一辺約16mと、

他藩では類を見ない大規模なものとなっています。


現在、野田山・加賀藩主前田家墓所の面積は

約8.6ヘクタールを測り、

墓域内には約80基の墓が建てられています。


藩祖前田利家の墓は前田家墓所内の

最も標高の高い一角に築かれており、

そのすぐ横には利家の正室・まつの墓が、

さらにその横には利家とまつの長男で

加賀藩2代藩主利長の墓が位置しています。


代々の加賀藩主の多くは

野田山の前田家墓所に葬られました。

4代藩主光高(みつたか)と9代藩主重靖(しげのぶ)は

金沢市内の天徳院に葬られましたが、

昭和20年代に天徳院から野田山へと改葬され、

現在、全ての加賀藩主の墓を

野田山の前田家墓所で見ることができます。


それでは、有名な人たちのお墓を順に巡ります。


前田道貞さんの左隣には、

第二代藩主・前田利長(としなが)の墓所がありました。

前田利長は、加賀藩藩祖・前田利家の嫡男として、

1562年(永禄5年)に尾張国荒子城(現名古屋市)で生まれ、

母は「お松の方」として有名な芳春院で、幼名を犬千代、

後に利勝、さらに利長と改めました。



1598年(慶長3年)に第2代藩主となりましたが、

徳川方と大坂方の関係悪化という難しい時代背景の中で、

翌年1599年(慶長4年)に前田利家が没し、

さらに1600年(慶長5年)には関が原の合戦が起きるなど、

加賀前田家にとって難しい舵取りに手腕を発揮しました。



前田利長の藩主在位は7年と短い期間でしたが、

金沢城の修築にキリシタン大名として有名な

高山右近を用い百間堀の石垣などを造らせました。


1605年(慶長10年)に弟・前田利常に藩主の座を譲り、

自らは越中の富山城に住みました。

1609年(慶長14年)に富山城が焼失したため、

海陸交通の要衝となる射水郡関野(現高岡市)に

街と高岡城を築き移り住みました。

この間に高岡の開発を進め、

現在富山県第2の都市となった高岡市の礎を築きました。



利長は1614年(慶長19年)に高岡城で没しました。

享年53歳でした。

高岡にある国宝「瑞龍寺」は利長の菩提寺です。

また、瑞龍寺から北へ伸びる八丁道の先には、

「前田利長墓所」があり、野田山の加賀藩前田家墓所

とともに国の史跡に指定されています。


利長公の墓所の前を通ってさらに奥へ進みます。

軽い下り坂になっています。



少し行くと、右手に「前田家墓地」の看板があって、

さらに上の方へ行く階段がありました。



反対の道路左側には、下の方から上がって来られる

長い階段が続いていました。



前田家墓地に足を踏み入れ、

まずは右手の小さな階段を上りました。



そこには、先ほど前を通ってきた前田利長公の墓の

説明書きがありました。

今、この前田家墓地を管理しているのは成巽閣だそうで、

今回初めて知りました。



ここで前田家墓地の地図を再度載せておきます。

右上の5つの墓所を訪れることになりますが、

前田利家公の墓所は最後にとっておいて、

先に利長公の墓所の前にある道を歩いて、

一段高い所にある奥の二つの墓所に向かいました。



奥へ進みます



道の突き当たり正面にあるのが

第2代藩主・前田利長の夫人の墓所です。



利長の夫人は「玉泉院(ぎょくせんいん)」。

1574年(天正2年)に織田信長の四女として生まれ、

「永姫」と呼ばれていました。



1581年(天正9年)12月に越前府中(現武生市)に入輿し、

7歳で第2代藩主・前田利長に嫁ぎました。



前田利長が1614年(慶長19年)に高岡城で没すると、

出家して「玉泉院」と号し、高岡から金沢に移り、

1623年(元和9年)、享年50歳で亡くなりました。



金沢城の西の丸跡は「玉泉院丸」とも呼ばれ、

昨年3月、北陸新幹線開業に合わせるようにして、

池泉回遊式の「玉泉院丸庭園」が復元されました。


玉泉院の墓所の左隣、一番奥の高い所には

前田利家の兄・前田利久(としひさ)の墓所があります。



前田利久は、尾張国荒子城主であった

前田利春の嫡男として生まれました。

1560年(永禄3年)に父の跡を継いで

尾張荒子城主となりましたが、

1569年(永禄12年)に主君であった織田信長の命により

弟の前田利家に家督を譲りました。



前田利家は荒子城主となった後、

兄の利久とは一時的に不仲となりましたが、

常に兄を重んじ、利家が金沢城に入城(1583年)後、

兄・前田利久を金沢に迎えました。


金沢での前田利久は客分として丁重に待遇され、

家臣団からはご隠居様と呼ばれていました。

また、前田利家が末森の戦いで出陣した際には、

金沢の城代として前田家の根拠地を守護しました。



前田利久は1587年(天正15年)に亡くなりました。

弟・前田利家は、野田山を墓所と定め、

山頂近くの場所に前田利久を葬りました。

これが加賀藩前田家墓所の始まりとなります。


道を戻って、こちらは前田利家の夫人・松の墓所です。

お松の方、のちの芳春院(ほうしゅんいん)は、

1547年(天文16年)に尾張国海東郡(現愛知県あま市)

沖の島で生まれ、幼名は松または昌。



1550年(天文19年)に前田家の邸に入り、

1558年(永禄元年)、尾張国荒子城主であった

前田利家に嫁ぎ、のちに正室となりました。



前田利家は戦国時代を生き抜いて

百万石の太守にまで出世しましたが、

利家の夫人としての芳春院の内助の功は

高く評価されています。


関が原の合戦の後(利家が没した翌年)には

徳川方と加賀藩の融和のために進んで人質となり

江戸へ赴き、1614年(慶長19年)までの15年の長い間、

加賀藩のために忍従の日々を過ごされました。



芳春院は、1617年(元和3年)、

享年71歳で、金沢で没しました。


最後に初代藩主・前田利家の墓所へ向かいます。

他のお墓はすべて鳥居の後ろに柵があって、

その後ろに土饅頭形のお墓があるのですが、

利家公のお墓の鳥居だけ向きが違い、

他の鳥居と垂直の位置にあります。



鳥居の奥に柵がありますが、その奥には何もなく、

お墓は右手奥にあります。



前田利家(まえだ としいえ)は1538年(天文7年)、

尾張国海東郡荒子村(現名古屋市中川区)の

荒子城主・前田利春の四男として生まれました。

幼名を犬千代、後に孫四郎、

1562年(永禄5年)には又左衛門と改めました。



前田利家は、14歳の時に織田信長に仕え、

生涯で40回以上の戦いに参戦し、

数々の武勲を挙げました。


中でも、初陣の海津の戦い(1551)、

桶狭間、長篠、賤ヶ岳の戦いや、

末森城(現石川県押水町)の激戦が特に有名です。

また「槍の又左」の異名で呼ばれるほど、

槍の名手であったとされています。



1585年(天正13年)9月には

豊臣秀吉から羽柴筑前守の号を譲られています。

豊臣秀吉の天下統一の大業は、

前田利家の功績が多大であったといわれています。



大名としては、1570年(元亀元年)に

近江国長浜一万石を領したのにはじまり、

越前府中(現福井県武生市)で三万三千石余、

次いで能登一国を領有し、

加賀国石川河北両郡を豊臣秀吉から増封され、

1583年6月14日(天正11年4月25日)に

金沢城(当時は尾山城)に入城しました。



利家の金沢入城とともに加賀藩の時代が始まりました。

この入城の日を記念して、かつては毎年6月14日に、
市祭・百万石祭りが市内で盛大に行われていましたが、

今は6月の1週目の週末に行われています。



利家は1599年(慶長4年)に大阪城で逝去。享年62歳。

金沢の尾山神社は前田利家を祭神として祀っています。


ということで、全く予定にはなかったのですが、

前田家の墓地に訪れることができ、

ついでに歴史も少し振り返ってみました・・・。


この日のお天気は概ね曇りだったのですが、

時折、太陽が顔を出すこともあれば、

突然、森の木々が一斉にざわつき始め、

ゴーッという何とも不気味な音が鳴るんですよ。

そして、急に風が吹き始め、雨がパラパラ・・・。


二人だから「すごいね~」なんて明るく言えますが、

自然の恐ろしさを体感した瞬間でした。

また、拝借した利家の墓の写真に、

カモシカの姿が写っていましたが、

去年はクマも出没しましたし、

行かれる方は、動物にも注意して下さいね。