遅くなりましたが前回の記事に引き続き「幕末佐賀 名君誕生」展のレポです。今回はパパ上様(と私が勝手にお呼びしている)こと9代藩主 斉直様について。
このお方については、息子である閑叟様が目立ち過ぎて何かと比較され、あまりよくないイメージがつきまといがちだと思われます。「鍋島は一代交わし」(佐賀鍋島藩は一代おきに明君が出る)とか言われ、あの久米邦武博士も『鍋島直正公伝』の中でボロクソ言っています(久米博士...)。
しかし、斉直様も決して暗君ではありませんでした。そんなお話を致しましょう。
まずはかの悪名高いフェートン号事件について簡単にフォローしておきたいです。これは佐賀藩の怠慢と言われますが佐賀藩にも事情がありました。長崎御番は名誉あるお役目ですがとにかく金がかかる。当時(文化・文政期)は佐賀藩だけに限らず全国的に慢性的な財政難で(斉直様は奢侈を好み藩財政を傾けたと言われますが当時は全国的に豪奢な生活が目立った時代でもありました)、藩主に就任したばかりの若き斉直様は既に傾きつつあった藩財政の建て直しを図ろうとしていました。その一環として長崎に充てる経費や人員を削減しつつあったときの突然のフェートン号来航。しかも、既に外国船が訪れるシーズンも終わり長崎奉行所から「もうみんな帰っていいよ」と言われ大方引き上げたところで...という話を聞いたこともあります。長崎奉行はさっさと勝手に切腹しちゃうからじゃあ誰が責任とるの?→藩主謹慎処分という異常事態に...斉直様可哀想でしょう?贅沢も許してあげたくなっちゃうでしょう?(それは駄目だろ)
さて、ここからが本題、先日のレポです↓
『雨中伽(うちゅうのとぎ)』という史料が展示されていました。これは斉直様の時代に成立した、佐賀藩の学問・文事・武芸などに関する歴史書で、48の項目について、佐賀藩内での流行や藩士のたしなみなどが記されているのだそうです。その中で、斉直様が藩士に習得を命じたものが2つだけありました。催馬楽と蘭学です。
催馬楽とは雅楽の一種ですが、「江戸や上方では盛んだがずっと佐賀にはなかった」とあるので、斉直様の指示で佐賀に導入されたようです。閑叟様、そして若様(と勝手にお呼びしている)こと11代藩主 直大様も催馬楽を含む雅楽に深く傾倒しました。現在佐賀県内唯一の国宝に指定されている『催馬楽譜』は閑叟様・直大様の時代に鍋島家に伝わったものです。
そして蘭学も、藩士を司馬江漢に学ばせるなど積極的に推奨しました。伊東玄朴ら佐賀藩の蘭方医たちの先駆者である島本良順も斉直様の時代に蘭学を学んだ一人です。
また、斉直様自身がたしなんだものとして、槍術・剣術・能楽・兵法・茶道があります。閑叟様も茶道を愛したことが知られていますが、閑叟様の茶道具の中には斉直様自作のものもあるのです。
...このように、閑叟様とその時代を特徴づける蘭学・雅楽・茶道などは、斉直様とその時代に遡るんですね。名君は一夜にしてならず、です。
また別の展示史料からの話になりますが、斉直様は「役人など選ぶ事、第一に候」と、役人選びの重要性をよく心得ていたようです。たとえ才能がなくても職務に合えば一旦は採用し、その上で周囲の評判や本人の行状などを勘案した上で適任者かどうか判断するべきであると。閑叟様だけでなく、斉直様も教育や人材登用に注意を払っていたことがうかがえますね。
長くなってしまいましたが如何だったでしょうか。斉直様は幕末という乱世において才気煥発な名君ではなかったかもしれませんが、学問・文化に深い理解を示し保護・推進に努めたことから、平時の名君にはなりえたのではないでしょうか。
