人生を構成するたった1つのもの
フェイスブックに
北海道、旭川の方からのリクエスト。
あ、生まれ故郷に近いな…
突如、幼少の頃の記憶が舞い戻る。
生まれた土地、北海道、深川市。
米の産地で目立つものは何もない。
そこから車で30分。
旭川市、旭山公園。
父と母に連れて行ってもらった記憶。
今は会うこともない兄とともに、
街頭の周りを飛び交うクワガタを
嬉しそうに、虫取り網で追いかけた。
北海道の山の街頭には、
驚くほどのクワガタがいて、
それは、もう取り放題だった。
はしゃぎすぎて幼少の俺は転び、
膝を擦りむいた。
そんな私に駆け寄る母。
泣きながら、でも立ち上がり、
また、クワガタに向かっていく。
そんな記憶が
急にフラッシュバックした。
メンターに言われたことがある。
『あなたは愛情を受けて育っているはずです。でなければ、そんなに人に尽くせない。愛せない。自分が傷ついてまで、人にそこまでできません。』
自分の記憶のなかでは、
どうしても親には愛されていない
というデータしかない。
でも確かに、
両親に愛されていたのだ。
そして、もう1つ、
フラッシュバックする
小さな俺は、
テーブルと同じくらいの背丈だった。
背伸びをしてテーブルの上を覗く。
すると母が、笑顔でこちらをみて、
『もう、まだ、つくってる途中なのに』
と言いながら手作りのクッキーを
口に放り込んでくれた。
確かに愛されていたのだ。
フラッシュバックは
過去の満たされなかった自分に
満足を与えるものではなく、
これから、
守るべきものに与える愛情を
自分がもちあわせていたのだと、
自分は人を愛せる人間だったのだ
と、知るには充分だった。
ながい年月、
愛されていないと
思い込んでいた。
まさに
その記憶のない幼少の時代にこそ、
本当は溢れるほどの愛を
与えられていたのだ。
この子が眠っているときに、
頬に何度も顔をすり寄せて
愛を表現している今の自分のように…
父も母も私に
愛を注いでいたのだ。
多感な思春期のひと時に、
すれ違ったものがまるで、
人生のすべてだっかのように思わせる。
そして、
フィルターのかかった映像を観せる。
“愛されていなかった”
のだと。
親は完璧ではない。
しかし、完璧ではない親を責めた。
親になった私とてそうだ。
完璧な親ではない。
置かれた環境のなかで、
ましてや、当時20歳そこそこの若者が、
自分を育ててくれたことを。
未熟にも精一杯の愛を
注いでくれたひとがいることを、
人はなぜ、忘れてしまうのだろうか。
携帯を手に取り、
一通のメールを送ってみる。
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あのさ…
そういえば、ガキの頃さ。
旭山公園でクワガタ採ったの
楽しかったよ。
ありがとう。
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清々しい気持ちになる。
人は本当は感謝をしたいのだ。
人生は全て感謝で構成されている。