アンパンの歌じゃ無いけど

私は結構、『何のために生きているのだろう?』と考え込む癖があります。


そうやって考える事は悪い事では無いし

哲学者と呼ばれる人たちは

みーーんなそういう事を考え抜いて来たのだと思う。

宗教もそこに1つの答えをくれるもので、だからこそ人々のレジリエンス(心の回復力)に寄与して来たという面もあるのだと思います。



ただ、考えすぎると

結局の所、心の負荷になるんだよねぇ(私の場合)


疲れて来ていたり

少し気持ちが落ちている時に、そういう事を考える傾向があるからかもしれないけれど。


その上、そんな時は余計に

周りの皆が生きる意味を感じながら

生き生きと満足に生きているように見えてしまう、、というのもあって

余計に鬱々とするのかもしれない。







例えば、生物学的観点から人が生きる意味を問うと【種の保存】というのがあると思います。

(子どもを産まなかったとしても、社会全体として次世代を守っているという視点では、誰もが種の保存に関わっている)

けれど、種の保存というものにそもそも一体何の意味があるのか?

→その意味付けとして、地球上の生態系のバランスを保つため、という答えを仮に立てたとすると・・・

(人間がバランスを崩している存在だという意見は、一旦脇に置いておいて)


じゃあ、そのバランスを保つ事に一体何の意味があるのか?

→地球という星の様々な命を育み絶やさないため、という答えたとする・・・


すると今度は、その命に意味があるの?

そもそも地球の存在に意味があるの?

宇宙の存在に・・・・

と、答えの出ない迷宮入りをしてしまいます(笑)


何なら全てが無意味なのでは無いのか?

と思えて来たり・・・


考えるだけ気持ちが鬱々して来るだけだし

無駄ですよねぇ、ホント。




陰陽師の松丸先生は、『経験というものを源に持って帰るため。日本に産まれた私達は、愉しむという経験をする事が大事』と仰っていて、それもひとつの答えだと思います。


ただ、そう思っていても

この個性・この身体を持った唯一無二の私、という存在の生きる意味って何なのだろうー?と、考えてしまう自分がいます。


それは結局のところ

答えの分からない問題と向き合ってるだけという事になり、

ただただその問に悩んでるだけで、無意味感に纏わりつかれたりします。


(仮に「子どもたちにとって、温かい土台となる母親であること」を生きる意味にしたとしても、そこをさっきの『地球とか・・宇宙とは・・』みたいな論法で突き詰めちゃうと、無意味感に囚われる、、という感じ)



だからね


どうせ意味無いんだし

考え込むだけ精神衛生上良くないし

(仮)として、何となく目先の理由をつけて

(それが、アクト療法で言う軸とか価値)

色んな経験を味わっていれば良いんじゃないのー??


と、思っております😝



私の使命!

私という人間の価値!とか考えるだけ

病むなぁーと。



自分の良心がこうありたいと思う事や

自分の心が喜び満足するような事を

ただ淡々と取り組んで行けば良いですよねぇ✨





さて。

これから、娘の高校の役員ママたちとランチです😊

その後の役員会で、会長から有り難いお言葉(つまりお説教)をいただくかもしれないという

なかなか面白い展開になっているので

楽しみでドキドキしつつ

若干、憂鬱です(笑)


ちづ