開拓団員の日本人男性が仲間の女性たちに伝えていた“お願い”とは
敗戦後の満州でソ連兵への“接待”と称する性暴力被害に遭った女性が明かした“むごい記憶”…「嫌だ。行きたくないよ、あんなところ」 から続く
戦後、孤立無援の満州開拓団は、深刻な飢餓、そして、現地民や進駐していたソ連兵からの襲撃に悩まされ続けてきた。そんなとき、開拓団の男性たちは一つの決断を下す。それは自分たちを守るために、団員の女性を「接待」役として差し出すことだった……。
犠牲となった女性たちはどのような思いで、決断を受け止めていたのだろう。ここでは、ノンフィクション作家の平井美帆氏の著書『 ソ連兵へ差し出された娘たち 』(集英社)より一部を抜粋。敗戦から一年が経った新京を経由して引揚船を目指す一団の道程を紹介する。
(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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かつての国都・新京
旧国都の新京は敗戦から一年が経つと、すっかり様変わりしていた。
街の大通り、裏通りには大小さまざまな闇市ができ、物売りや物乞いの姿が路上のあちこちで見られた。混沌とした街路を、難民となった日本人、中国人、朝鮮人、さらにソ連兵が行き交う。
闇市では、ソ連軍が本土へ持ち運びできなかった略奪物資も売りに出されていた。だが、それらの品を、ソ連軍が無秩序に発行した軍票で買い上げるのは、当のソ連兵だった。つまり、どの道、ただ同然でロシア人の手に物資が渡る仕組みになっていて、現地で暮らす人びとに利益はまわってこない。
収容所に入った日本人は、路上での物売り、裕福な家の使用人などに身を転じ、小銭を稼いだ。
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きょうだいを連れて新京にたどり着いた善子(よしこ)は食べていくために、あの手この手を駆使した。日本人から古い着物を仕入れてくると、半分に裂いていった。着物としてはもう使えないが、半分の布地を着物一着の値段で中国人に売りつけると飛ぶように売れた。それからも、善子はあちこちで商売になりそうな情報を仕入れてくると、妹の久子にアイスクリームの売り子や女中などをやらせたり、弟たちにコークス(石炭)拾いをさせたりした。
弟の虎次は、善子はモリモト (編集部注:安全に帰国できるように同行をお願いした九州出身の帰還兵)に頼ったから、引き揚げる途中に犯されるようなことはなかったと考えていた。虎次の弟、英一は満州での体験をあまり覚えていない。
だが、モリモトは四六時中、善子たちと一緒にいたわけではない。弟らが知らないところで、姉妹は日本人収容所でも性被害とは無縁ではいられなかった。
寝苦しくて目を覚ますと、男が上に乗っていた
久子によると、新京に着いてまもないころ、「やっぱり、日本人はいいな」と思っていた矢先、ある日の夜中に寝苦しくて目を覚ますと、男が上に乗っていたという。子どもと一緒に収容所に入ってきた日本人の男だった。翌朝、男が子どもと一緒に出かけたあと、久子たちはその収容所を逃げ出した。
2カ月ほど経つと、ようやく次の引揚船に乗れそうだという噂が流れはじめた。善子はあらかじめ準備しておいた保存食を、きょうだいのために縫ったリュックの中に入れて持たせた。
新京を7月に出て、その南の奉天では10日滞在した。さらにコロ島近くの錦州に10日ほどいた。コロ島に着いたのは7月末のことだった。そこから引揚船に乗りこんだ。船の中でお腹が空くと、善子が少しずつ保存食を手の平に乗せてくれる。そのおかげで、きょうだいは飢えを感じることなく、過酷な旅を耐えることができた。
善子は生前、家族のことで思い悩む久子の相談に乗るかたちで、久子にあてた音声メッセージを録音していた。2時間に及ぶ長い語りの中で、新京での苦労話にも触れている。
「いつ日本に帰ることになって、何日間か難民生活になっても、腹減らんようにしとかなあかんで、飢え死にするようなことになってはあかんでって思って――」。豆を炒る、ニンニクを買い占める、味噌を甘辛く煮る。とにかく、両親を失った下の子3人が生きのびられるようにと必死に知恵をふり絞った日々だった。
「本当に姉さんには頭が下がる。男みたいな気性やった。清水の次郎長みたいな任侠肌っていうんかな。『久子! 人間ってのは、あまり律儀に生きても損をする』って言うとった」
久子にとって、善子の存在は言葉では語り尽くせないほど大きかった。
松花江の犠牲
善子たちが新京をめざして一足先に去ったあと、黒川開拓団も集団引揚げに向けて動きはじめていた。いつまでもぐずぐずと、陶頼昭(編集部注:団の入植地)に留まっているわけにはいかない。
そうとはいえ、内地への引揚船がいつごろ出るかわからないまま、病人や幼い子を含む大集団が一度に移動するのは無謀と思われた。まずは新京に設営班を置こうと、団幹部らは考えた。
2名の男が6月下旬、新京に向かった。
だが、内戦のさなか、彼らが松花江の鉄橋を渡ってから、ある事件が起こる。北進を続ける国民政府軍が第二松花江の南岸まで迫っていたため、その進攻を阻もうとしてか、河にかかる鉄橋が爆破されてしまったのだ。
7月、第二陣の男たちが息せき切って、パンツ一枚のような出で立ちで陶頼昭に戻ってきた。河にかかる鉄橋が壊されてしまったため、なす術もなく、川幅50メートルほどの第二松花江を泳いで渡ってきたのだ。
使命感に燃えた彼らは広場に団員らを集め、新京の状況を報告した。すでに日本人の引揚げがはじまっているから、ぐずぐずしている場合ではない――。
この報告を受けて、ついに黒川開拓団は陶頼昭を去ることにした。
8月12日、薄暗い雲の下、わずかな食糧や幼い子を背負い、団員らはぬかるんだ道を歩きはじめた。自力で歩けない重病人や老人が12名ほどいたが、担架に乗せて若者らが運んだ。
夕刻からは雨が降りはじめ、数キロ先の松花江が果てしなく遠くに感じられる。雨にずぶぬれのまま一夜を明かし、2日目の晩も柳の原っぱで過ごした。
3日目、ようやく松花江の河辺までたどり着いた。しかし、肝心の鉄橋はもうなく、満身創痍の大集団が大河を渡るには船が要る。
このとき発生した現地人との金銭のやりとりについて、団員らの記録にはばらつきがある。だが、遺族会文集には、「事前に」仲介役の満人に金を渡していた、「その場で」1人10円くらいの金をとられて身体検査をされたといった記述が見受けられる。
〈 当時団長代理だった藤井成一氏は、この人なら信用できると思われる満人に、当時の金で二千五百円を渡して松花江を渡るための商談をなされた。松花江を挟んでの北の中共軍と南の国府軍と交戦中で、北の中共軍側から南の国府軍支配下の土地に渡るのは大変なことで、こうした手段を取るより方法はなかったようである。 (『あゝ陶頼昭』より)〉
しかし、「通行料」は金銭だけでは済まなかった。
ここでまたもや、娘たちが交換条件に用いられたのだ。「交渉」があったとすれば、相手は共産党側なのか、国民政府側なのか――。どちらの側にせよ、再び、女の犠牲が生まれる結果となった。今度は、中国人兵に選ばれた若い女がみんなの前で連れていかれてしまった。
「それだけは姉さんもぜーったいに、言わなかったね」
自分の亡き姉も松花江で犠牲になった。そう明かしたのは、三班の風呂焚きをしていた千代子である。千代子の父は敗戦前、母は敗戦翌年の春に亡くなり、9歳上の姉は親代わりの存在だった。
それが語られたのは、「接待」について訊ねたときのことだ。千代子は強い方言でこう話しだした。
「うちの姉が生きとったらよ。よう知っとったけどよ。あの人もいっぺんだけ犠牲になったけどよ。それだけは絶対に言わなんだよ」
「いっぺんというのはソ連兵の接待のほうに?」
「ソ連じゃない」
千代子ははっきりと否定した。
「中国。河を渡るときに『いっぺん出てもらえんだろうか?』ってよ。姉は結婚してて、旦那が兵隊にいっちゃってた。それでソ連の接待には出なかったわけ」
千代子は私から「接待」の質問をされたのに、ソ連兵に対してではなく、松花江での出来事を連想してしまった。そのことからも、松花江の犠牲も、本質的には団からのお願いと捉えていたことが窺えた。
一行が松花江の畔にたどり着いたとき、千代子は20代前半だった姉の傍にいた。黒川開拓団の男が姉に頼んでいるのを見た、と彼女は重ねて述べた。
「それはすごく覚えとるがね、雨が降るのにね、『頼むに、一回出てもらえんかね』って言ってみえたもんでね」
1946年8月12日から連日雨が降っていたのも、遺族会文集の複数の記述と一致する。
中国人兵が女の提供を要求したにせよ、そのときに団の男側が女に、「協力」を促したのだろう。
「誰に言われたんですか?」
「男の人やけど、そこまでは姉がおらんでわからんけども、言ってござった」
千代子は自分の前にいた娘も、中国人兵に連れていかれるのを見た。
その娘とは、医務室にいたみね子の3歳下の妹だった。みね子自身はこのときには、八路軍の開院準備中の病院で働かされていて、黒川開拓団と一緒にいなかった。
千代子の姉はほかの娘たちと連れられていき、一晩帰ってこなかった。その翌日、中国人兵らに連れられて黒川開拓団へ戻ってきたそうだ。
「ほいでそのあとに、『へんなおりものが下りるんで、なんだろうねえ』って、姉が私に言ったことがある。……病気がうつっとったんじゃないかね、たぶんそうやに」
岐阜中部の方言か、名古屋弁なのかはわからないが、千代子はあけすけにものを言う。
しかし、当の姉は90代で亡くなるまで一度も、松花江での被害を妹以外には話さなかった。
「それだけは姉さんもぜーったいに、言わなかったね」
帰国目前で帰れなかった人たち
娘たちの犠牲によって橋のない大河を渡ってからも、団員たちはひたすら歩き続けなければならなかった。連日続く避難行に疲労は限界に達し、いまにも倒れこみそうな者ばかりである。自力では歩けない病人や老人を乗せた担架を運ぶ男たちの足も、止まりがちになっていった。
このとき、ある老人が見放されて、道端に置き去りにされたと証言する元団員もいた。
命からがら新京にたどり着いた夜、
「水、水……」
とひとりの娘が苦しそうに訴え続けた。
担架で運ばれてきた重病人で、「接待」を強いられた約15人のうちの1人だった。
同じく犠牲者のセツ(仮名)の胸には、このときのことが深く刻まれていた。
新京に着いた翌朝、セツの家族のもとへ、
「姉ちゃんが死んだから、(遺体を)運ぶのに帯を貸してほしいんやけど」
とその子の弟が言ってきたからだ。
「帯っていうのがこれなんや」と、セツはその長い帯を私の前で広げて見せてくれた。
白い縦じまの入った黒色の絹織物である。戦前にセツの母親が長男のために、家の蚕の糸を紡いで、はたを織って作ったものだという。その後、徴兵された長男はフィリピンで戦死してしまったが、母親はこの帯を息子の形見のように大切にしていた。
セツはいまでも帯を見ると、亡くなったその子を思い出すと語った。
母の織った帯に包まれた遺体は、セツの父親が背負い、少年とともに野原のどこかへ葬りに行ったそうだ。
「ごめんなさい」――。セツは何もしてあげられなかった友人に、心の中で詫びることしかできなかった。
黒川開拓団は新京に20日ほど滞在して、奉天、錦州へ向かった。そして、コロ島から日本海を渡って、9月初旬、ついに祖国の地を踏むことができた。
松花江が望める砂山、団本部の倉庫裏、駅のホームの外れ――。集団自決こそ免れたものの、二百数十名が命を落とし、異郷の地で眠りについた。
(平井 美帆)