続き。
暗くなってから移動することになってしまい、液状化した道路はつるつる滑り、それまでに感じたことのない緊張で教えてもらった方向へ歩き、学校の体育館へ。
その地区は比較的被害は少なく、一人暮らしで不安だという女性と、子どもが怖がるから人のいるところに来たと言っていた母子家庭だというお母さんと小さな女の子しかいませんでした。
避難所開設時は大勢集まっていましたが、暗くなるくらいに皆さん帰宅されたというお話でした。
今考えたら、他の人が男性ばかりだったら状況が違ったと思うので不幸中の幸いでした。
ストーブに毛布、お湯の入ったポットは自由に使っていいよと温かいお茶も飲めて、ホッとしたのもつかの間。
余震でバスケットボールゴールのチェーンがガチャガチャ鳴るたびにみんなで「ひぃー」と言ってしまうくらい揺れ続けました。
ガラケーはプライベート用と仕事用の2台持っていて、プライベート用は夫への連絡や、その前にも地震の情報などを調べようとして使ってしまって充電が切れそうでした。
まだその当時はキャリアによって充電コードの方が違い、自分でも持っていなかったので、他の方が合うようでしたら貸しますよと言ってくれましたが残念ながら型が合わず。
女の子が寝てから、大人たちも眠ることにしましたがさすがに熟睡は難しく、眠ったのが遅かったにもかかわらず朝6時前くらいに全員起き出していました。
JRの駅への行き方と最寄りのバス停、1つ先のバス停のほうがバスが多く来る、など教えていただいてとりあえず駅に向かうことにしました。
検見川浜駅は京葉線なので、それを越えて新検見川駅のほうが総武線だから動くかもしれないというのも地元の方からの情報がなければわかりませんでした。
本当に偶然、その日の始発のバスに乗れて新検見川駅に行き、また幸いに総武線の始発電車に乗ることができました。
発車したのは7時くらいだったように記憶しています。
当時の自宅最寄り駅の日野駅についたのが13時は過ぎていたはずです。
少なくとも6時間以上かかったことは確実です。
ポイントごとに乗務員の方が電車を止めて、降りてポイントを確認してから再び発車するというアナログな方法で進み、電車は私と同じように帰宅できなかったと思われる人々で超満員。
今のようにSNSもやっておらず、スマホもなく、地震の被害状況もよくわからないままひたすら耐えるしかなかった一晩と数時間。
あのとき以来、スマホの充電器やアダプターと水筒などの飲み物、ちょっとカロリーを摂れるものを必ずカバンに入れておくようになりました。
3月11日が来るとあの日のことを思い出しますが、段々と細かい部分の記憶が薄れてきました。
風化させないように、書きました。