聞いた瞬間はそうでも無かったのに、家に帰ってほっとした瞬間に、ああもう会えないんだなというどうしようもなさが襲ってきた。

彼女は長い間、孤独と死と闘っていたのだろう。

最後まで他人のことを気遣っていて、闘病生活に気付かせなかった。隠し通していた。

その優しさと、本当の勇気について、想像する。



私は、平均的な人々よりは、死のことについて考えてきたように思う。

ある時は恐怖と共に、ある時は希望と共に。


この前に観た、羽仁進のドキュメントを思い出す。

「死は生のかわいい弟なんです」と彼は言っていた。

表と裏、光と影のように語るものではないという部分には賛成だ。

少し違うのは、私はメビウスの輪のように、生と死はなだらかに繋がっているのだと感じている。

だから生から逃げれない限り、死からも逃げられない。ふと気付くと、死がいて驚くことも多いが、それもまた自然なことなのだろう。

命が終わる恐怖や、逆に死が魅力的に映った時、そうやって自分を宥め透かして。



でも、今回のは、本人が選んだ死でもなく、闘病生活の上の死だ。

そのくせ、私にとっては不意打ちで、普段想像しているものとは勝手が違って、感情がついていけなかった。


これ美味しいね、その服かわいいね、と他愛ない話をした帰り道。

共通の友人が口を開き、その訃報を私に伝えた。

友人なりにタイミングを見計らい、私が一番ショックを受けないようにしてくれたのが分かった。

だから友人に悲しさを思い出させた申し訳なさとか、暫く会っていない彼女の人となりを思い出すのとかで、全然気持ちがついていかなくて、ぼーっとした顔で聞いていた。

家についてからも、ぼんやりとした気持ちでいた。


ふと、私は彼女と最後に何を話してたんだろうとLINEを開く。

すると、弱々しげに悩み事を相談している私と、丁寧で温かい返信をくれた彼女がいた。

遡ってみても、ずっと支えてもらっていてばかりで、彼女に何も返せていなかったと思った。

遡ってみても、何も彼女のことを知らなかったなと思った。

皆で集まったときは、私達を優しく見守ってくれていたお姉さんのような人。



幸か不幸か、彼女の死は、私の日常生活を崩壊させることはないだろう。

だって生きているときも、そんな頻度で彼女のことを頭に浮かべていたわけではないのだから。

やりとりも一年前のが最後だったように。

他のお茶友よりは、彼女との関わりが少なかったのは大いにあるが、思ったよりは悲しんでいない自分の軽薄さに失望している。


でも今後感情が追い付いて、思い出して悲しくなることは何度もあるだろう。

悲しみでも喪失感とか、はっきりと言葉に出来るものじゃないかもしれない。

もっと訳が分からなくて、混乱しているような気持ち。

恐らく居心地の悪さのようなものも添えて。

トーク履歴に確かに彼女は存在しているのに、現実には彼女が居ないというのが不思議だ。

覆せない事実を頭でなぞり続ければ、私はその事実を“理解”するのだろうか?

今の私は知っているけど、理解はしていない。



「会いたい人には会わなくちゃ駄目だ」
私に訃報を伝えた友人がふと溢す。

縁は切れる。

いつの間にか古びていて、手繰り寄せた時にその先にあの人は居なかったりする。

繋がるとは、何だろう。
ツールでは、繋がっている。

色んなSNSが乱立して、切れた糸の先を探しに、ネットを海を揺蕩えば、また見つけることも出来そうだ。
でも、見つかったところでもう一度繋がれるのか。

相手はもう違う人と手を取るのが手一杯で、私と繋いでくれる腕はないかもしれない。でも。

そして、だからこそ、今のその人と、今、一緒に居れるうちに。

終わりだと、気付かないうちにでも会う。


彼女の死への引け目だろうか、生きている私は何かしなきゃいけない気がした。

疎遠になった人に連絡をとることにした。

何年も会っていないし、どうなっているのかは知らない。

送る文言も、理由も浮かばないけれど、とりあえず、メッセージを飛ばしてみる。


あまり待たずに、元気で変わりない返信が返ってきた。