大学の映画サークルが、告白シーンを撮っている。
夜が明け始め、リミットが近付くがまだ終わらない。
監督がどれだけ演技指導しても愛を表現できないギンジは、山月記の李徴よろしく錯乱し部屋を飛び出してしまう…
2週間ぶりに戻ってきたギンジは、クマのぬいぐるみを持ちながら「彼女が出来ました!」と嬉しそうにはしゃぐのだった。


最初から置いていかれた。
女の子らしい部屋に男と、女装した男がいる。
これはセクシュアリティ的に笑ってもいいやつなのかヒヤヒヤしながら見守る。
うん、笑って良いやつだと安心。

そして我々はもう一度置いていかれる。
ギンジがニヤニヤしながら紹介する彼女、“ユリ”はどうしてもクマのぬいぐるみにしか見えない。
映画サークルの仲間たちもからかってほうり投げたり…
しかし時が進むにしたがって、“ユリ”を認識する仲間が増えていく。


作者の松居大悟は映画監督も行っている。
そこでは男子学生の他愛もないお喋りをイキイキと描いているのが印象的だった。
演劇になってもそこは変わらずに、寧ろより大胆に表現豊かに登場人物がはしゃいでいる。


最初は壮大なコントだと思ったけれど、どうやらそれだけではない。
各々のユリへの向き合い方を通して、色んな愛の形が描かれている。
もしかすると、ユリが人間に見えるか否か=愛が見えるか否か
なのかもしれない。

愛に正解は無いのだろう。
ギンジはユリに執着して愛に溺れている。
一人は映画の中などフィクションの愛については知っていそうだが、プレーヤーとして自分が行う現実的な愛を知らない。
ユリになりたくてドキュメンタリーを取り続ける人、人類愛に目覚める人、家族愛が生まれる人など様々なキャラクターが登場することで、観ているこちらも誰かの愛の形には共感出来ることだろう。
(演者に愛とは何かを訊いて、それを基に役のキャラクターを作っていったらしい)

愛に振り回されて時には滑稽になり、他の人からすると可笑しくてたまらないかもしれない。
でも笑われるのを怖がってスタートラインを切らないのは、いつまでも広い視野でいれると同時に、喜びや楽しさをダイレクトに得ることが出来ない。
だから恐れずに“参加”することが大事なのだと言われている気がした。


ソファを遊園地のコーヒーカップに見立てて黒子が回すシーンが新鮮だった。
またスローモーションで黒子がギンジを持ち上げるシーンもあり、金ちゃんの仮装大賞を見ているかのような楽しさがあった。


演技もさることながら、皆さんぬいぐるみさばきが上手くて、感情のこもり方が文楽のようだったな。