演劇カンパニー チェルフィッチュ×芸術家 金氏徹平がタッグを組んだ本作品。


メインビジュアルは、バーチャルな空間に丸くて大きな象が浮いている画で、そこからは本編について計り知れない。


何故作ったかは、
東日本大震災で被災した陸前高田市が驚異的な速さで作り変えられるを見たのがきっかけ
だとは書いてあるが、どうも概念的で具体性が伴わない。

一体どんな“演劇”を行うんだろうと疑問が解決しなかった。



ロームシアター京都のサウスホールへ。

舞台上には金氏さんが作成したモノが所狭しと並べられており、俳優が歩くスペースが少ない。

猫の肖像画、繋ぎ手の塩ビパイプが並んでくっつけられたオブジェ、半透明の電子パネル、カラーコーン等々。
様々なアイテムが見えた。



観賞した第一声は、“全く持って訳が分からない”。

前衛的過ぎだ

一通りの演劇は観賞してきて、新しいアプローチの演劇が観てみたい人にはうってつけかも知れないが、なかなかに観る人を選ぶ内容。



3幕から成り立ち、洗濯機が壊れたという何気ない話から、時間について語ってみたり抽象的なシーンまで様々。

登場人物の喋り方が独特で、ラップのような散漫なリズム。
そして“でも”、“ですけれども”が多用され、台詞が長い。
しかも一人だけではなく、他の演者も同じように喋っている。
独特の体の動きも伴って。


 また一つのエピソードを複数人で共有しているところも印象的だ。
洗濯機が壊れたと語る男性が出てくるが、語り部が女性に変わりそのまま話が進んでいく。

台詞が無い時も、モノのように直立不動でそこに存在し続ける俳優達。


上記の演出によって、俳優一人一人の個性を取り除き、均一化させている

その演出方法は、現代中心に置かれがちな“俳優至上主義”を否定していて、すごく斬新だと思った。


「この俳優(キャラクター)のあの演技が~」など人間個人にフォーカスを置くのでなく、場面をそのまま描くことや、舞台上のモノひとつひとつに注意を持たせるようにしている。


つまり人もモノも同等の扱いで、主役であり脇役なのだ。


ヒューマニズムを否定し新たな技法を模索している実験的な演劇だった。


そう言えば能においては後見という役割の人間がいる。
普段は小道具の取り出しなど裏方的役割を担っているが、シテやワキの人間が倒れた際には彼らが代役を務める。

劇を遂行することを第一の目的に置いている能と、“人間中心主義から逸脱“を目指す本作が似ていると思った。
今の概念を覆すことは、忘れられつつある昔の概念を掘り起こすことなのかも知れない。
(そもそも役者それ自体がちやほやされ始めたのはいつからなのだろう?)


エピソードについて特に言いたいことはない。
ただ政府の人間達が未来人の脅威について議論するシーン。

散漫でだらだらした終わりがあやふやな喋り方の彼らを描くことで、恐らく口だけでなかなか政策を実行できない現代政府の優柔不断さを揶揄っているのだろう。
東日本大震災の対応の遅さにせよ。



来年の2月には『消しゴム森』が金沢 21 世紀美術館で上演されるらしい。

演劇カンパニーが、美術館を使ってどういう風に上演するのか?
『消しゴム山』とどう差異をつけるのか?

そちらも注目だ。