天気の子を観た。

『君の名は。』と、『雲の向こう、約束の場所』などインディーズ時代とのバランスを上手くとった作品だと思った。


まず『君の名は。』は、時間軸がずれた二人が出会うズレ、その二人を交互に映し何度の二つの時間軸を行き交う話になっている。

それに加えて距離の断絶。
東京の男子高校生と、岐阜の田舎に住む女子高生が偶然に出会うというドラマチックさもバッチリ。

要素がこみこみで、SF好きにも、ファンタジー好きにも、謎解き好きにも、ラブストーリー好きにも、アニメ映画好きにも受けるようにした保険をかけまくっている。ヒットしない訳がない。
(RADWIMPSも川村元気も巻き込んでいるのでコケれないのは分かる)

一方『君の名は。』以前の新海誠は、特に本人のコンプレックスが全面に押し出されている。私語りを聞かされるかのように、見ていてこちらが恥ずかしくなる事が多い。
まず恋愛に対するコンプレックス。
異性に対する幻想、理想を具現化し、とことん人の汚さを排している。
そして田舎に対するコンプレックス。
田舎を出れば何か変われるんじゃないか、東京には何かがあるんじゃないかと信じている。
最後に無力感に対するコンプレックス。
自分の実力以上の事を成し遂げようともがき苦しみながら進もうとする姿勢。

この『コンプレックス』は全作品にまたがっているものの、コンプレックスのコントロールが段々上手くなっているように感じる。


『天気の子』は、新海誠の代名詞の写実的な背景は勿論そのままに、コンプレックスを重くならずに練り込み、突拍子もないSFチックな展開が初期作品を思わせ、RADWIMPSのコラボや世界観のスケールの広さでヒットも押さえる。

どちらにも偏りすぎることなく、独りよがりにならず、でも自分のやりたいことも行えている今作。

最優秀作品ではないが、監督の名刺代わりに紹介できるバランスのとれた作品だ。



今作は、主人公の周りの大人の行動が気になった。
須賀さんは穂高に対してすごく親切で協力的だ(扱いは雑なものの)。
物語の終盤に穂高が警察を振り切り暴走する際にはたしなめ、行く手を阻んでくる。
(最後の最後で協力してくれるんだけど)

もし私が10代の頃にこの映画を観たのなら、ギリギリまで腰を上げてくれない須賀さんにイライラしただろう。自己保身の為に穂高を追い出すのも納得いかないだろう。
でも20代の今の私は違うことを思う。

大人って他人の面倒の為にそこまで頑張ってくれない。
いや、働いて一生懸命毎日を繰り返して、そんな余力なんて残っていない。
ましてや、公務執行妨害なんて。
そんなリスクを犯す義理なんてない。
だけども最後の最後で協力してくれるだなんて、なんて優しい大人だろうか。

フィクションの魔法が解けかけて、現実目線で見ている私がいた。



大人の理論でいけば、陽菜が生け贄になって天気を取り戻せるのがいいに決まっている。
大人へと向かう中で穂高も薄々気付いている。
でも陽菜は失いたくない。
だから自分の行動が正しかったのだとずっと問い続けることになるだろう。
その答が出ない煮え切らない感じ。それが新海誠ぽくて良かった。(この手の煮え切らないエンドはSFでよく見るが、なるほど新海誠はSFが好きらしい。納得。)